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[読書の記録]菊地成孔・大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編&キーワード編』(2009-10-25読了)

 人知れず『東京大学のアルバートアイラー』を読了した。
※私が、ジャズ研に所属する大学生として過ごした2000年代後半、音楽オタクな学生たちの間では、歴史編とキーワード編から成るこの講義録が、ほぼ必読書の如く扱われていた




1) 『東大アイラー』の感想

 私は本書を読む前、「マイルス・デイビスは神経症的主体でジョン・コルトレーンこそが統合失調症だ」と考えていた。

 まずマイルス・デイビスは、スイング~ファンク~ヒップホップと、時代ごとに父権的だったビートを下敷きにして即興音楽を作っていた。また彼は、マイケルジャクソンやビートルズとかポップスターの真似をしたり、「フリージャズ」というパンドラの箱の存在に気づいていながら自覚的に「モード」にとどまり、伝統的な教会旋法の延長線上にある即興演奏を探求した。
 かたやジョン・コルトレーンは、バカテク天才インプロバイザー&コンポーザーだったにも関わらず、あっさりフリー方面に旅立ってマス音楽ファンからの支持の追及を放棄した。さらに晩年は「宇宙」とか「私は神になりたい。本気で」といった発言をしていた。

 つまり、マイルスは抑圧的な現状に迎合し続けるという意味でオイディプス帝国主義の虜囚だったと思ったのだ。彼はリッチな家庭の出自だが、自身の音楽でも商業的に成功した。ビートルズに対するジャンル全体の敗北という話はあれど、ジャズミュージシャンというくくりのなかでいえば、カネの面で最も成功しているのはマイルスだ。
 一方でトレーンは、循環する貨幣に握られた社会の欲望の型にはまることはなかったけれど、結果的には革命的な欲望が現代の社会にぶつかって敗北した姿、そのもののように思えた。

 しかしながら『東京大学のアルバート・アイラー』では上のような整理の仕方はされていない。同書はむしろ、平均律~バークリー・メソッド~MIDIへと連なる機能和声による作曲/演奏法を一貫して「モダニズム」の運動ととらえ、その運動のモーメントを軸として持ちながら、モード奏法の発明でバークリーメソッドの外へとジャズ、ひいては北米のブラックミュージック全体を解き放ち、20世紀の初頭にすでに出現していながら機能和声理論による分析を拒んでいたブルーズという音楽の初期衝動を蘇らせたマイルス・デイビスをこそ、音楽史におけるスキゾフレニーの登場としてとらえている。 
 まあスキゾという言葉は菊池さん大谷さんは使ってないんだけど、両名によればブルースの登場時点で、アメリカ音楽はMajorとMinorを共在させるというそれまではなかった方法で複数性を表現できるようになっていた。この、アフロアメリカンが本来的に持っていた脱構築的なブルース衝動―――メランコリーを統合失調に消化するという技法―――がモダニズム運動の慣性に引きずられていったん抑圧されたのを、もう一度マイルスが引っ張り出したというのが、本書における大まかな議論の方向性だ。
  かつてJazz Lifeのインタビューでリチャード・ボナも、「マイルスバンドの演奏を、音量を絞ってトランペットの音だけ取り出して聴くと、彼はブルースそのものを演奏していたということがわかる」と言っていた。

 だから菊池さん大谷さん的にはマイルスこそモーゼであり、モダニズムの極北をいく存在だったということらしい。モード奏法の時点でバークリーメソッドでは分析できなくなるということなので、これはこれで納得だ。トレーンは即興法を硬派に追求した結果、ビバップ~モードを通って宇宙に行っちゃった人だから系統が違うらしい。


 なんというか、しかしこの「単純化された機能和声の理論による作曲」という流れとそこから逸れていく流派を固定的に対置して、おおざっぱに言ってマルクス的なもの(=バークリーメソッド)からの逃走の文脈においてジャズの歴史全部を説明しているところにニューアカ的な臭いを感じてしまう。。
 菊池さんは文庫版のあとがきで「この本はアンチ・ニューアカデミズム」とか書いているけど、わりとニューアカそのもののような?まあ別に悪いことではないと思う。ただ個人的には、宇野常寛さんとか濱野智さんなど、ゼロ年代に現れた批評家がポップミュージックの歴史をどう解釈するかに興味がある。

 ところで、楽理の発展史的には、平均律~バークリーの分析を拒むような形式の誕生こそが近代合理主義の超克だったらしい。そんで、MIDIが登場して音楽がさらに規格化されちゃって、それへの抵抗としてジャズミュージシャンたちは生身のプレイヤーとしての特性をさらに強調するような方向に演奏技術を進化させ、正統派モダン・ジャズ回帰、フュージョン/クロスオーバー、フリーインプロに走って行ったのが、ジャズの「ハイパーモダニズム」だというのが、『東大アイラー』では結論とされている。確かにリビドー経済の欲望の型から脱したという意味では成功した「逃走/闘争」であると思うし、結論としてはきれいだ。しかし私はポピュラー音楽はまた別の側面においてモダニズムを経験していると思っているので、少しそれについて考えを記録しておきたい。



2) モダニズムの運動としてのサンプリング音楽


 20世紀から21世紀に時代が移る中でポピュラーミュージックの中心に躍り出たジャンルと言えば、なんといってもヒップホップだ。
 ヒップホップをはじめとするサンプリングを用いた音楽の作家たちが行うのは、デューク・エリントン、エリック・ドルフィー、クロード・ドビュッシー、トム・ヨークといった過去の偉大な作曲家の作品を切り貼りし、一つの楽曲に再構成することだ。冗長な記述になるが、彼らはサンプリングという、MIDIと並ぶ素晴らしい発明品を駆使してこれらを行う。
 でもヒップホップに必ず目くじら立てて批判してくる人々がいる。彼らはサンプリングで構成された音楽を生演奏のライブミュージックに対して劣位に置こうとする。サンプリングにアンチの人たちは大体、「芸術の持つ一回性」がとか、「オリジナルの真正性=オーセンティシティが~」とか「アウラが~」どうのこうのと言う。
 しかし私は、サンプリングを駆使した音楽において行われているのは「文脈の差し替え」であり、アウラの再生産なんだと声を大にして言いたい。

 文脈の差し替えは悪いことではない。むしろそれによってオリジナルの持つインパクトを効果的に普遍化できる(ここではオリジナルが何かという話はひとまず保留)。例えばパウロがキリストの磔刑を勝利と解釈し、ラカンがフロイトを鏡像段階のソシュールをとおして読んだように。
 客も違えば演奏された場所も時間も違うわけだから、たとえばCDに閉じ込められた録音ですら完全に同じ反復をすることはできない。ましてや、ジェームズ・ブラウンとバーデン・パウエルが並置され再生される状況は、「Funky Drummer」が録音された時点では考えられなかったはずだ。私たちは場所、時間、聴衆、演奏方法など、新たに様々な文脈を付加して、オリジナルの持つ意味を変化させる。だから極端な話、どんなにサンプルてんこ盛りの音楽でも、たとえば毎回まったく同じリストでプレイするクラブDJがいたとしても、その一回一回がスペシャルなものになる。

“When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again.” - Eric Dolphy

"Miss Ann" from Eric Dolphy 'Last Date", 1964, Fontana 681 008 ZL 

 ここに引いたドルフィーの言は電子楽器とかサンプリングといった手法にアンチな人々に対する痛烈なアイロニーになっていると思う。つまり、おまえらがどんなに嫌いなサンプラーとかCDJで作られた音楽でも、この会場でこの時間に生起した出来事としてのショウケースは、二度と捕まえられないですよという。一回性を条件とするアウラの生成を宣言している。

 あるいはこのような例はどうか。日本には学生フルバンの伝統があるが、大学生によるデュークエリントン楽団、カウントベイシー楽団のコピーを、音楽的な新規性の無さをやり玉にあげて鼻から毛嫌いする人もいる(私もかつてはそっち側だった気もする)。ただこれを一種のサンプリングと考えると、単なるコピーでも新たな価値が付加されていることは明らかだ。学バン文化はビッグバンドによるスイングジャズという形式がもつ新しいポピュラリティの発現なのだ。アリストテレス的発想をすると、ビッグバンドジャズは、それが生まれた世界大戦期のアメリカではたまたまダンスホールで演奏されていたにすぎず、内在する慣性力によって、21世紀の日本でも続く演奏者の伝統と新しい聴衆を獲得したのだとも言える。

 学術論文の価値が後日、同業者に引用されまくることによって決定されるように、音楽においてもオリジナルが作曲された時点ではまだその価値や意味の系列は定まっていない。
 実際、ハードバップ後期の俗にファンキージャズと呼ばれる一群の録音の中には、90年代に入ってからクラブミュージック世代によって再評価され、名盤となった作品も多い。ピート・ロックやCLスムース、ロード・フィネス、ラージ・プロフェッサーといった東海岸のヒップホップクリエイターたちは、ニューヨークが育てた文化の象徴として「ジャズ」をサンプリングし、自らのアイデンティティとしていった。ドナルド・バードとかボビー・ハッチャーソンの大ネタをベタ敷きにして。
 別の歴史的契機への移植によって、オリジナルは新しい真正性と価値を獲得する。そしてその新しい付加物とともに再生されるバードの録音は、まったく別のアウラをまとうことになるのだ。

 サンプリングはクラブミュージック生産の基本テクとなり、ジャズだけに限らず、オールド・ソウルやファンク、ダンス・クラシックスなども新しい歴史的契機への植え替えを次々に経験した。
 そして、サンプリング技術の進歩はさらなるポストモダンな経験を、メタファー/象徴としての「ジャズ」に強いることになる。
 ニューヨークのヒップホップユニット、GangsterrのトラックメイカーDJ Premierは、「チョップ&フリップ」と俗に呼ばれる技術で、サンプリングネタを、オリジナルを判断するのが難しいレベルにまで細かく裁断し、それをサブリミナル効果的に散りばめたトラックを次々に生産した。上記したように、それまではモロ使いが主流だったにもかかわらず。
 ここにおいて完全にオリジナル/非オリジナルの二分法は意味をなさなくなった。Gangsterrは、自分でも把握できないほどに元ネタを散種することによって、マイルスとは別の意味においてジャズを砂漠へと解き放った。
 さらに90年代も後半に入ると、ロサンゼルスの鬼才Madlibが、そうした「サンプリング元ネタの名曲」を、もう一度生楽器(全部自分で演奏。超ヘタクソ笑)で再構築するという二重の脱臼をやってのけた。彼はヒップホップに記号論を持ち込み、思想としての音楽を体現するのが東海岸のリリシストたちだけではないことを身をもって証明した。
 私が青春期を過ごした00年代は。製作面でのテクニカルなイノベーションを経て、オリジナルと引用の二分法が崩れた後の時代だった。音楽のモダニズム運動は、コンテンツを伝達する情報技術のイノベーションによりさらに加速された。

  ヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』の中で、絵画・彫刻などの芸術作品は、「いま・ここ」に現前しているという「一回性」において「アウラ」を持ちえたが、19世紀に台頭した写真や映画などの複製技術は、その「一回性」の条件を奪ってしまったと論じた。ベンヤミンの考えによれば、芸術作品の「アウラ」は「一回性」という経験の条件、つまりその対象がオリジナルであり、「いま・ここ」という一回限りの場において知覚、経験することで支えられている。しかし、映画や写真やレコードといった、コンテンツを大量に複製してしまう技術の出現は、その「一回性」を奪ってしまうという。
 この構図は長年支配的であり、たびたび参照されてきたものだけれども、所謂ニューメディアが登場したことと、それを爆発的に普遍化させたブロードバンドの人口への傀儡によって、芸術作品を取り巻く環境はさらに変化しやした。われわれはベンヤミンを超えて、音楽を含めた芸術の存在様式を読み替えていく必要があると思う。
 
 iTunesで音楽買って、あるいはYoutube上の動画の音声データだけタダで取り出してアイポッドに同期して聴いたり、それをもとにミックスした音源をライブで使える時代ですから。(※この文章は2009年に書かれています

3) 芸術作品のデジタルデータ化と知覚の変化

 レブ・マノービッチは「ニューメディア」を定義して、表象するものが不連続で理算的であるメディアだとした。(The Language of New Media, MIT Press, 2001)その意味でニューメディアが対象とするのは、常に「データ」なのである。この定義は必ずしも電子的な媒介物を含意していないが、情報技術の進歩がなければ現れることがなかったのは明らかだ。

 ニューメディアが、コンテンツが「データ」であることをその最大の特徴とするなら、ニューメディア時代の芸術作品は情報理論のロジックに服従的であるはずだ。つまり、情報の、それ自体としては決して現前することがないという特徴を芸術作品も持たざるを得なくなるのである。ジャック・デリダはテクストという身体を与えられた言葉を「パルマコン」として話し言葉から決定的に区別した。話し声は現前の感覚を含意するが、書くことによって、言葉は、その場面には不在である者への書き込みへと変更された。電子メディアの登場は、この変形をさらに進めたといえるだろう。
 テクストの登場によって失われていた、語の本来持つイメージとしての感覚が、コンピュータによって回復されると述べたのは、英文学者のキャサリン・ヘイルズである(How We Became Posthuman, The University of Chicago Press, 1999)。ヘイルズによれば、情報技術の発展に従って、言葉は物質的に耐性のあるテクストでなく、電子的なイメージと相互作用するようになった。ニューメディアの時代において言葉をとらえるには、現前と不在の二分律よりも、情報理論のようなパターンとランダムネスの弁証法的関係が有効だという。しかしヘイルズは、それを物質的世界の消失と取り違えてはならないことを強調する。物質的インターフェイスの変化こそがこの転換を引き起こしたのであり、パターンとランダムネスの弁証法は、物質的世界を消去していない。ニューメディアが生み出した語の意味作用の変化は、その消費様式の変化に結びつき、新しい身体経験を引き入れているのである。

 ヘイルズが述べたのは主に文学テクストの生産の文脈においてであろうが、この変化は、音楽を含めた他の多くの芸術作品の形態においても現れているといえよう。フロイトのような存在論になるが、そもそも人間は常に間接的な代替イメージ、身体的刺激、あるいは他者の身体を手掛かりとしなければ己の身体イメージを確保できない。そうした中で、絵画や彫刻の身体経験は、間接的な表象実践の中で、人間が自らを見つめなおす際に強い力を持つ、きわめて凝集されたイメージとしての経験であった。
 それはまた、映画や写真では異なっている。映画や写真に写し取られた身体のイメージは、己の身体とそれを取り巻く状況を極めて生々しく与えてくる。バルトが『明るい部屋』で述べた「写真的エクリチュール」は、写真があまりにもあるがままであるがゆえに、現実との強い結びつきを有していることを説明する概念である(みすず書房、1985)。そして、ニューメディアの時代にあっては、もはやそのような区分ではとらえきれない身体性の存在様式の地平が現れているのではないだろうか。いまや表象されるコンテンツは「情報」なのであり、身体性は情報が現れる地点によって如何様にも経験されうる。

 このことを踏まえると、先ほどのベンヤミンの立場が、そもそもの前提から崩れ去ってしまうことは明らかだ。ポストモダニズムとシミュラクルについての議論はすでに語りつくされた感すらあるが、実際、データ化された可変的なコンテンツがネットワーク上を流動する現代にあって、何がオリジナルであるかは大した問題とみなされていないといえよう。
 これは前述したような、サンプリング&MIDI時代のクラブミュージック生産者が行ったオリジナルと引用の脱構築のダメ押しである。端的に言って、今日「いま・ここ」は遍在する。ニューメディアは、芸術が持つ「いま・ここ」性をも複製しうるのである。

 例えばウェブ上でストリーミング配信されるような作品を考えてみる。これまでのメディアとの最大の違いは、オンデマンド型の鑑賞に適しているということになるだろう。
 現代人の多忙さを反映し、各個人が、自分の都合のよい時間に、自分好みのコンテンツを鑑賞できるこのような形態は、よりポピュラーになってきている。映画館やコンサートホール、美術館、あるいはお茶の間のテレビとは明らかに異なり、もはや鑑賞者たちは鑑賞の場を共有する必要がない。コンテンツはパケットに分解され、お互い物理的にはるかに離れた情報端末に分配され、それぞれに再構成される。「いま・ここ」はあらゆる場所に現れうる。マノービッチも、ニューメディアの別の特性として、モジュラリティという言葉を使っている。
 ニューメディアは、ある機能を持った統一体を一つ一つバラバラにでき、いつでも再構成できるのだ。これはある単一の身体をもった芸術作品では不可能なことである。生演奏によるショウビズとしてスタートしたジャズも然りである。

 ニューメディアの席捲は芸術鑑賞における主体の自由度を高めているように見える。ではこの事態は手放しで歓迎すべきことなのだろうか。現実には一方で、情報アーキテクチャからの強い規制を受けるようになっているのではないか。
 再びヘイルズを参照すると、彼女は、情報の持つ、耐久財との決定的な違いは、それが保存された量ではないことであるとしている。インターネットを通じてやり取りされるファイルは、実際の物理空間上の交換とは異なり、どれだけコピーしても元のファイルが失われるわけではない。ヘイルズによれば、情報にとって持つ者と持たざる者を分け隔てる決定要因は、所有というよりアクセスであるという。アクセスという言葉はそれ自体エンコードとデコードに必要な暗号を生産者と消費者が共有することを要請している。電子メディア時代の語り手の形態は、物理的にはさまざまに現れうるが、その常数として、複雑なコードを操作する能力を持つとヘイルズは言う。
 コードの操作者として語り手を構築することで、読み手にも変化は起こる。デコーダーへと移行した読み手は、テクストを超えたコードの力に影響を受け続けるようになる。

 コードという語の持つ意味は、文学作品との関係において、より強力になるのかもしれない。しかしコードの共有は、電子メディアに媒介された芸術作品全般の消費、鑑賞に必要な義務として付きまとうもののように思われる。単純にメディアリテラシーの問題へと解消できるものでもない。
 先にも述べたが、この問題は情報環境アーキテクチャに関わる。コンテンツとは無関係な電子メディアに媒介されることによって、主体と芸術作品を取り巻く世界は暗号に満たされるのである。そこで必要とされるのは解釈ではなく解読である。主体は自分の情報端末を通して見えるものを見えたままに受け取ることで、複製された「いま・ここ」性を感受しつつも、絶えずそのイメージを二重化しているコンパイラ言語を意識せざるをえないのではないか。そうした暗号を共有しているという事実において、時間的にも空間的にも別々にいる無数の鑑賞者たちは、同一の「場」を経験しているのかもしれない。
 視覚的聴覚的空間を攪乱し認識に時間的不一致を到来させるテレプレゼンスの「不気味な」体験について、デリダは郵便と電話のアレゴリーによって語った。電子メディアがもたらしている根源的な変動は一見このモデルと類似している。しかし芸術鑑賞に到来しつつあるのは、もはや空間的でも視覚的でもない世界と言えるのではなかろうか。
 マルチメディア世代の人間にとって、複製メディア体験が身体性を最初から取り込んだものであったことを踏まえれば、情報ネットワークを介した芸術鑑賞は、自らの身体が時間空間を超えて無限に拡大していくような主観体験をもたらすものである。そうした感覚の中で、それぞれの鑑賞者は、それぞれの「いま・ここ」性において「一回」しかない場を知覚している。これは印刷技術と映像的音声的複製メディアとの「緊張関係」をあまりに意識していた前世紀の複製メディア論の射程ではとらえきれない事態だろう。
 ニューメディア時代の芸術鑑賞者は、なんの抵抗もなくこの文化変容を受け入れられるため、形式と身体性において一体化することができる。認識と媒介のあいだに厳密な区分を設けることは、もはやできない。そしてそれゆえに、主体は意識せずして自由を奪われていると言えるだろう。

 ニューメディア環境の下では、主体は解釈ではなく解読をするようになると述べた。これでは、暗号を用いてエンコード/デコードできる以上のものを、芸術は伝えることができなくなる。
 精神分析医の斎藤環は、コンピュータグラフィクスを例にとってこの話題を扱っている(『メディアは存在しない』NTT出版、2007)。確定記述の集積の、直接的な画像への変換であるCGには、決定的に「ノイズ」が欠けており、そこに表現力の限界が存在していると斎藤は言う。これはデジタルに取り込まれ、ダブ処理を施された音声データにも共通する特徴である。つまり、芸術にとって本質的であるはずの、記号レベルで実体化できない、明示できない要素が、CGやMIDIを含む電子メディアでは伝達できないというわけだ。これではますます一様な「解読」が要求されるようになり、主体の自由が脅かされる由々しき事態となる。
(ここで、すべてを「コモンズ」として公開してしまえば、コードを定める必要がなくなり、このような自由を奪われることもないという可能性が示唆されるが、その議論はここではひとまず保留しておく。※この文章は2009年に書かれています

 さて、ニューメディアは本当に主体から自由を奪うのだろうか。そして芸術からいわば偶発的な要素を取り去ってしまうのだろうか。この問題の自己解決の可能性を示唆しているのはまたしてもヘイルズのパターン/ランダムネスの弁証法モデルである。ヘイルズは、ニューメディア環境下にある主体が共有する一定のパターンをもったコードは、長大であるがゆえに、その一部にランダムな要素が混入した場合でも、全体に及ぼす影響が大きくなると主張する。電子的なノイズのような小さな変化が非線形な相互作用を引き起こし、いわば「質から量」への転化が、おこるという。その結果もたらされたランダムネスが新しいパターンとして認識されるようになり、コンテンツの変化へと連続していくという。

4) いま、再びのヒップホップへ

 ヒップホップは、こうした情報技術革命と、それに付随する主体の不安とが切り結んだ地点に生まれ落ちたポストモダンの鬼子である。
 例えば人力ヒップホップバンドのThe Rootsはヘイルズの指摘するような方法によってではないが、生楽器によるインプロヴィゼーションという要素を加えることによって、ニューメディアに媒介されて(過去から、そして現在から)運ばれてきたデジタルなコンテンツてんこ盛りのショウケースの中にも、可塑性を半ば強引に引き入れている。ニューメディア時代にあって、その技術的恩恵を最大に享受しつつも、ショウビズとしてスタートし、即興性を本質的な要素としていたトラッドなブラックミュージック(≒ジャズ)への敬意を忘れないことで、新たな形での自由を生成したのだ。
 ここに、音楽が向かうべき未来のひとつの形があるとでも言っておこう。

 「意味は真理を待ち受ける」

ジャック・デリダ『声と現象』

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