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お母さん原罪

2020年のお正月が来て,旧正月が明けて,いよいよ新春らしさがはっきりと薄れた気配を感じた頃,そいつは突然やってきた。

そう,これだ。

油断大敵!備えよ常に!

すでに11月にインフルエンザAに子ども2人がなり,子ども3人ともリンゴ病を併発し,ダブル感染症渦を乗り越えて,無事にお正月を過ごしたね~と,油断していた我が家。

そこにインフルエンザBという侵入者が来たのだった。

油断大敵!備えよ常に,だ!

こんな古語を残してくれた先人たちはやはりすごい。それでもって,今回のインフルB渦で,さすがにわたしも学んだ。

お母さん,そう,あなた!あなたもまた「お母さん原罪」を持っているのね!

お母さん原罪とは?

説明しよう!お母さんとは,意識していてもしていなくても,ひとたび,子どもを産み育てて人の親になったら最後,「罪悪感」という原罪を抱えるのだ。

原罪だから,もう生まれもっての罪,抱えて生まれて来たもので,持っていないのは聖母マリアだけだと,キリスト教学の授業で習った(うろ覚え)。

わたしはキリスト教信者ではないけれど,キリスト教に入信しようかしら?とさえ思うくらいキリスト教の教えにハマり(っていうのか?),マスール(シスターのこと)や神父様のお話に心ときめかせ,「祈りましょう」というシスターたちの声の静けさにしびれた。

結婚式もカトリック教会であげようと思っていたので,結婚前に夫と教会挙式のための結婚学校に通い,夫婦とは何かを神父様に教えたまわった。

それでも,原罪があるというカトリックの教えはなんとも,受け入れがたく,「免罪符」があるなら発行してくれよ!ルターのように!アーメン!なんて思ってカトリック教義の勉強はとん挫している。

人間は生きながらに罪がある,罪深き人であるという教えはどうもこうもしっくりこないのだけど,それはまあ置いておいて,「お母さんはすべからく子どもの世話をしなければならないから,自分のことを優先して休んではならない」という原罪があるように思える。

もし,そのような「お母さん原罪」というものがあるとするならば,でもそれは無理な話だ。

だって,わたしたち女性は,お母さんになる前には「妻」だったし,「娘」だったし,なにより自分という役割を生きて来た。

「母」になる前に「自分」100%で生きてきたのだから,子どもを産んだからといって,100%お母さんになれって言われても,無理だ。

この「お母さん原罪」には,「子育ては母の手で」という3歳児神話がからみつく。

厚生労働省の「平成12年厚労白書」で,はっきりと否定されているにも関わらず亡霊のように,まだ残っているのだ。

「3歳まで抱っこし放題」と言い放ったズレたおじさんがいたことを記憶しているが,抱っこし放題をわたしたち女性は求めているのではなくて,ダイバーシティを求めているのだと思う。

====引用ここから

III.母親と子
○ 育児についても母親がその大半を担っており、「夫は仕事、妻は家事も育児も仕事も」といった女性が二重、三重に負担を負う状況。
○ 戦後の高度経済成長期を通じて、居住空間の郊外化、核家族化が進む中で母親が一人で子育てに専念することが一般化。普遍的なものと受け止められがちな「母親は子育てに専念するもの、すべきもの」との社会的規範は、戦後の数十年の間に形成されたに過ぎない。
○ 子育てにおける「母性」の果たす役割が過度に強調され、絶対視される中で、「母親は子育てに専念するもの、すべきもの」という社会的規範が広く浸透。
 しかし、妊娠・出産・哺乳が母親(女性)に固有の能力であるとしても、例えば、おむつを交換する、ごはんを食べさせる、本を読んで聞かせる、お風呂に入れる、寝かせつけるといった育児の大半は、父親(男性)によっても遂行可能。
○ 子育てについては専業主婦により高い不安傾向。家に閉じこもって、終日子育てに専念する主婦は、子育てについて周囲の支援も受けられず、孤独感の中で、子ども中心の生活を強いられ、自分の時間が持てないなどストレスをためやすいためではないか。
○ 母親が子育てに重圧やストレスを感じながら子どもに接することは、子どもの心身の健全発達に好ましくないことはいうまでもなく、児童虐待という事態に至ることもある。母親と子どもが過度に密着することの弊害も色々と指摘されるようになってきている。
 母親の育児不安を解消するには、できる限り多くの人が子育てにかかわる中で、母親自身も過度の子どもとの密着関係を見直すことが必要。
○ これらのことを踏まえれば、三歳児神話(子どもは三歳までは、常時家庭において母親の手で育てないと、子どものその後の成長に悪影響を及ぼす)には、少なくとも合理的な根拠は認められない。
○ 乳幼児期という人生の初期段階は、人間(他者)に対する基本的信頼感を形成する大事な時期であるが、この信頼感は、乳幼児期に母親が常に子どもの側にいなければ形成されないというものではない。
 両親が親として子育て責任を果たしていく中で、保育所や地域社会などの支えも受けながら、多くの手と愛情の中で子どもを育むことができれば、それは母親が1人で孤立感の中で子育てするよりも子どもの健全発達にとって望ましいともいえる。大切なのは育児 者によって注がれる愛情の質。
○ 子育てについての過剰な期待や責任から、母親を解放していくことが望まれる。そうすることが、結果的には、母親が心にゆとりをもって豊かな愛情で子育てに接することにつながり、よりよい母子関係が築かれることにつながると考えられる。

====引用ここまで

わたしは19年前にこの白書を読んだ時,大学生だったけれども,拍手喝さいを送った。

その後,仕事をするようになって,この白書を編纂している官僚ママたちに出会って,いかに過酷な環境で官僚やママたちは子育てをしているかについて,意気投合し,エールを送り合ったこともある。

ママだって仕事したいの!ママだって,自分の人生を生きたいの!

それはこの国では,甘い考えなのだろうか?子どもを産んだら,「手が離れるまで」仕事はしてはいけないのだろうか?

わたしのキャリアはどうなるのだろう?

「子どもは小さいうちは焦らなさんな」とか「子どもはすぐに大きくなるから,今を大事にね」なんて,子どもをベビーカーにのせて散歩をしていると,年配の女性によく言われた。

こちとら,生後4ヵ月から子どもをあずけて仕事をしているワーママだ。フルタイムじゃないけれど,フリーランス業に産休なんてないし,単年度契約は切られた。

それでも,自分のキャリアを繋げるために,ほそぼそと仕事をし,キャリアを中断しないように,業績の空白を作らないようにと,指導教授に口を酸っぱくして言われた。

「一度切れた仕事の道は,ぼくら,教授職でも,後がないですからね」と,介護で大学教授の仕事を離れた同僚がいることを教授はぼそっと言った。

女性でも男性でも,人生の一時期,誰かのケアをする(ケアラーと言う)ために仕事を離れなくてはならないキャリアの中断時がある。

そんな時,どうしたらいいのだろう。そんなことを,今回,インフル騒動で,初めて連続して病児保育に子どもたちをあずけて,思った。

それまで,子どもの病気の時は,母親が休んでケアをしなくてはならないと思い込んでいたので,病児保育を利用しても,緊急の仕事以外は,自分の仕事を休んで家庭保育をしていた。

でも,ふと思ったのだ。今,わたしはわたしの人生で大事な仕事の1つを育児以外にしていて,この時期を外しては生きていけない!と。

そして,子どもをあずけることに対して,とっくの昔に払拭していたと思っていた罪悪感がまだしつこくあったことに気づいた。

(お家の人が居る時は学童は利用できません!という,公的学童で言われたこともあるから,刷り込みだ。民間の学童も利用しているが親が在宅でも利用できる)

このような親や周りからの「刷り込み(思い込み)」は,生きていれば必ずある。その刷り込みは,その当時の自分にとって生きていくのに都合がよかったりする「役割」なのだから,刷新してもいいのに!

こうして,なにかコトが起こる時は,思い込みに気づくチャンスだ。もう今はいらなくなった「思い込み」を捨て,新しい「思い込み」に書き換えて行こう。

わたしは,「病児保育は最大限に利用する」という刷り込みに書き換えた!病児保育のおかげで本当に今回は助かったので,病児保育の利用の仕方のコツを有料記事にまとめたいと思う。



論文や所見書き、心理面接にまみれているカシ丸の言葉の力で、読んだ人をほっとエンパワメントできたら嬉しく思います。