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ネット世界の陣取り合戦

風呂に浸かりながら、ふと思ったことがあった。
SNSとか、創作とか、動画とか、あれもこれも陣取り合戦だなと。

自分は20年近く、音楽やゲーム、絵など、多くの創作をしてきたが、
ついに今年になって自分自身がクリエイターとしての才能が無いことに気付かされた。

その結果、心の筆が折れ、ゲームも作らなくなり、
RTA走って動画は出したけど昔のように全然伸びず、もう駄目かもしれないと察した。

Audiostockに出す効果音・曲も作ったりもした。
お金のために。でも続くことは無かった。
VSTのライセンスを気にしてるので、ライセンスがあまり厳しくないVSTでないと音は作れない。
やがてネタ切れとなって躓いてしまう。

***


今年の半ば、自分が作り続ける理由を考えてる時、こう問うた。

誰かから奪う側か、あるいは誰かに与える側、どちらがいい?


自分は小さい頃は、奪う側の人間だった。
自分を守るために、誰かを攻撃する、言わば問題児だった。

だからこそ、自分はもう奪う側になるつもりは無かった。
与える側でありたい。そう強く思った。

だから自分は、作ったものでいろんな人に与え、
そして貢献したいと決めた。
それが自分の新しい作るための理由になっている。

しかしそれでも、継続して作り続けることが難しい。
やる気が出ないとか、めんどくさいとか、
そんな単純ではないと感じている。

作ること自体が、全然楽しく無い。
作ってる時は、ただただ無で、楽しくでテンション上がる感じとか、充実してる感じとか、一切無い。

ただ無に加えて苦痛感に襲われる。
ゲームとかだと上手く動作せずにトライ&エラーの繰り返しで、精神に披露が積もる。
音や曲も、上手くいかない日だと良い品質にならない。
動画も全然再生数が、去年と比べててんで伸びず、しょうもなって思ってしまう。

***


それに加え、SNSとかネットの世界は、常に人気の奪い合いが起きている。
インスタでは虚飾してアピールして、ツイッターやYou Tubeはフォロワー数とかで、
再生数だの、フォロワー数だのを競い合う。

それはまるで、相手のマスに自分の色を塗り潰すかのように、自分を人気になるために誰かのマスを奪い、自分のマスが奪われる。

じゃあ白い空白のマスを探せばいい。そう思う人もいるだろう。
しかし、もうそんなマスは存在しない。

ユーチューバーとか、Vtuberとかは既に飽和状態だし、絵師も人に魅力を与えることができなければ、マスすらも塗ることができない。

常に誰かのマスを奪わないといけないし、奪われないように人気を高めて頑張らないといけない。

そんなことをして、果たして幸せになるだろうか?
幸せは誰かから奪って得られるものだろうか?

自分はそうではないとはっきりと答える。
幸せは自分自身で作るもので、誰かから奪うことで得られる幸せは、本当の幸せではないし、一時的な仮初の幸福に過ぎない。

人が得るべき幸せとは、精神が穏やかで、誰かを傷つけたり奪ったりせず、奪われることもなく、人生を楽しいと感じる絶対的幸福だと、自分は考えている。

自分はクリエイターとしての活動をお休みしている間は、家族とでかけたり、mipig cafeに遊びにいったり、色んな動物と触れ合った。
時には動物たち懐かれ、筋肉痛になることもあった。

でも動物たちから愛情を受け取ったり、優しさや癒やしを感じた。
その幸福には、誰かから奪ったものではない。相手から与えられたものだ。

だから自分は、奪うよりは、誰かへ与える立場の方がよっぽど良いと思っている。
もしネットで、これからもクリエイト活動することが誰かのマスを奪うことだとすれば、クリエイターをやめようと思う。

誰かを傷つけたり奪ったりしても、決して良い気分になることはない。
むしろ幸せや優しさを誰かに与えた方が、お互いが良い気分になれるし、マイナスも産まない。

***


来年で自分は20代を終える。
これからの人生をちょっと考えてみようと思う。

ただ、家庭のこととか、不動産や管理会社とか、色んな問題はあるものの、
それでも楽しく生きようと思う。

自分はもう、誰かから奪うことはしたくない。
ネットで活動すること以外で、自分が誰かのためにできることが、きっとあるはずだから。
それを探そうと思う。


おしまい。


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