夢うつつ湯治日記 2


10月某日 初めての湯治  

【二日目(1)】  村の朝市と朝風呂

昨日は早く眠りついたせいか、まだ夜が明けきらないうちに目が覚めた。

寝ぼけた頭で、一瞬自分がどこにいるのか分からなかったが、昨日、この宿にきたのを思い出した。

もう一度寝ようとしたが、今度はなかなか寝付けない。

しばらくすると、どこかで鶏の声が聞こえてきた。

一番鶏ってやつか。

カーテンのすきまから見える空が少しずつ白み始めた。

山間は、日が射すまで時間がかかるせいか、まだ明るい感じはしない。

少しまどろみかけたが、また威勢の良い鶏の声で目が覚めた。

窓のカーテンを開けて、寝ながらガラス越しに空を見ていることにした。


「この坂のちょっと登って行ったところに、公民館があって、そこで毎朝、野菜を売るおばあちゃんがいる」

昨日、煮物を分けてくれたおばちゃんが言っていたのを思いだした。

何時ごろからやってるのかな。 朝は早そうだな。

時計を見るともうすぐ6時。
空は明るくなっていた。


朝風呂に入ってみようかな。たしか5時頃から入れると宿の説明書きに書いてあったな。

いや、それとも天気もまずますだし、健康的に朝の散歩でもしてみるかな。
そこで野菜も買えたらラッキーだし。

私は布団から出て、部屋の片隅にある小さな洗面台で顔を洗って髪を少々整えた後、着替えて、外に出た。


山の空気はひんやり澄んでいた。幸い風はない。風があったら寒い位だ。
10月に入ったばかりとはいえ、やはり山間部は涼しい。

もう少し暖かい服を持ってくれば良かったな。

そう思いながら門に向かった。

宿の白い犬が、怪訝をそうにこっちを見て軽く吠えた。

宿の前の道を、白い軽トラが1台登って行くのが見えた。

宿の前の道に出ると、宿の向かい側の道端のコスモスが満開だった。
山裾から差し込んできた朝陽の光に、花弁や細い葉についた露が光っていた。

こんなにコスモスが咲いていたんだ。
来る時は気づかなかったな。

道を少し下ると、砂利が敷かれた小さな駐車スペースがある。
あらかじめ教えられたそのスぺースに車を停めて、宿に向かった。
その時は、宿の方ばかり見ていて、コスモスには気が付かなかったなぁ。

そう思いながら、登り道を登って行った。


道の上から、おじいさんが一人、腰の後ろに手を組みながら歩いてきた。

「おはようございます」

頭を下げながら言うと、おじいさんは

「おう、宿の人だね。今ね、上の方で野菜売ってるよー」

と言いながら、道を下って行った。


脇の細い道から、やはり地元の人らしいおばあさんが出てきて、こちらをチラリとみて頭を下げた後、どんどんと道を上がっていった。

いやあ、やっぱり健脚だなぁ。

おばあさんの後についていくように、道を登っていくと、さほど行かないうちに、道の脇が開けて、平屋の公民館があった。

その公民館前の駐車スペースに、軽トラが2台停まっており、
数か所広げられたビニールシートの上で、地元の人らしいばあちゃんたちが、思い思いに野菜や漬物やら、
手作りのクラフトなどを広げていた。

浴衣に羽織を羽織っただけの、他の宿のお客らしい人たちが、少し寒そうにしながら、売り物を見比べている。

近所の人らしいおじちゃん、おばちゃんも朝の挨拶をしながら、買い物をしている。

既に買い物を終えて帰っていく人もいる。

公民館の入り口前には、少し若いおじさん達がタバコを吸いながら談笑していた。


艶々した茄子が目に入った。

「ここの土地の茄子はね、柔らかいんだよ。土のせいかね。この間も、東京から来たという人がたくさん買っていったよ」

茄子を並べながら、おばあちゃんが言う。

昨日の茄子、美味しかったなあ。

そう思いながら、茄子と、その隣でやはり艶々と光ったピーマン、そしてプチトマトも買ってみた。
季節的に路地ものの名残とはいえ、美味しそうなのに驚きながら。

その隣のシートでは、別のおばあちゃんが、ビニールの袋詰に詰められた漬物類を売っている。

白っぽいものが入ったビニールを手に取ると、そのおばあちゃんが、
「それは、新生姜を砂糖に漬けたんだよ。新生姜は味が柔らかいし、食べやすいよ。喉にも良いよ」

と嬉しそうに話す。

生姜はちょっと苦手だけど、試してみようかと一つ買ってみる。


「おはようございます」。
後ろから声がして振り向くと、昨夜、煮物をくれた婦人だった。

「昨日頂きたみかん、ありがとう。甘くて美味しかった。あの香りをかぐと秋になったなあと思うわね」

「いえ、こちらこそ、煮物、ありがとうございました。美味しかったです」

もっと気の利いたことを言いたいなあと思っていたら、

「中田さん、今日は新作の漬物あるんだよ」

漬物シートのおばあちゃんが、その婦人に声をかけた。

中田さんっていうんだ。常連さんなんだなあ。


宿に戻ろうとすると、もう一台、軽トラが入ってきた。
荷台を見ると、柿を乗せたケースが見えた。


柿だ!

私は戻り、駐車スペースに停まった軽トラに近づくと、他にも果物があるのに気づいた。

いちじくもある。

軽トラの運転手 兼 売り手のおじちゃんから、柿を数個と、パックに入ったいちじくを買うと、宿に戻った。

一人なのに、ちょっと買い過ぎたか…

中田さんと呼ばれたあの婦人が、昨夜「作り過ぎちゃって…」と言っていたのを思い出し、なるほどと一人で納得した。

朝食は、行きがけに買った食パンに、今朝買った柿といちじくを1個ずつ、そして牛乳で済ませた。

知らない地元ブランドの牛乳のパッケージも新鮮で、ささやかに旅気分を彩る。

地元産の新鮮な果物もまた、嬉しい。

おしゃれな雑誌かサイトで紹介されるヘルシーな朝食って感じかな。

コーヒーを入れてみるか。

保温ポットを持って、母屋に行き、お湯を入れて戻ってきた。
めんどくさいけれど、これもヘルシーな生活かも。

すっかり前向きな発想になり、食料品袋から、一人用コーヒードリップのパックを開け、
持参したマグカップにセットし、お湯を注ぐ。

なんか、コーヒーもゆったり淹れられて良いもんだなぁ。

ひとり悦に入りながら、テレビのスイッチを入れ、マグカップのコーヒーをすすりながら、ぼんやりと朝の情報番組を見た。


…ああ、そうだ、湯治に来たんだから、やっぱりお風呂だよね。

しばらくテレビを見ていた後、ふと本来の目的を思い出し、風呂の支度をして、部屋を出た。


脱衣所に入ると、先客が二人いて、入浴中だった。

服を脱ぎ、「おはようごさいます」と言いながら、おそるおそる引き戸を開けた。


40代ぐらいの女性が二人、たわしで床を洗っていた。


「あ、すみません、お掃除中でしたか」

と出ようとすると、女性達は口々に、

「おはようごさいます」

「違うの、違うの。今、お風呂から上がるところだったんだけど、上がる前に、使った辺りをちょっと掃除しようと思ってね」

「これを入る度にやっておくと、宿のおばちゃん、お掃除ラクだから」


と言いながら、使ったカランやその周りや、洗い桶をたわしで手慣れた様子でこすり、シャワーでさっと流してから、

「では、お先に」

といって、脱衣場に上がっていった。

…そうか、みんなで手伝いながら、宿を盛り立てているのね。

感心しながら、体を洗い、湯船に浸かった。

やや冷えた体が、じーんと温まる。

朝の光が差し込む風呂場は、湯気がより白く柔らかく感じられた。

ああ、そうだ。ラベンダー湯も入ろう。

小さい浴槽に入って、浮いている生成りの袋を手に取ると、昨日のものとは違った質感。

鼻を近づけると…ラベンダーの香りはしない。

残念。ラベンダーじゃない。日替わりなのか。

でも、なんだろう、今日のお湯は。

袋の中の感触は、小さい木の枝のようだった。
香りはあまりない。

少し残念に思いながら、風呂から上がろうとしたら、
先ほどの先客二人の様子を思い出した。

そうそう、私も手伝おう。

使ったカランとその周りをたわしでこすり、ついでに、浴槽の周りもぐるりと軽くこすってみた。
さすがに床全体はきつい。仕事とはいえ、宿のおばちゃん、一人ではきついだろう。

使った風呂桶も洗いで流した後、再び、大きい方の湯に軽く使ってから、風呂から上がった。

着替えて、蒸気を抜くために浴室窓を開けようと再び浴室に入ろうとした時、引き戸の脇の壁の小さな張り紙に気づいた。

張り紙には、手書きで、

「今日のツボ湯は、クロモジ湯です」

と書かれてあった。


ツボ湯…というより、昔の家庭用ユニットバスの風呂桶だよなぁ…

ツッコミを入れながらも、「そうか、クロモジという木があるのか」

と思いながら、部屋に戻った。

(つづく)

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