介護≠福祉の時代

介護は現代において福祉ではない!

という主張を繰り広げてみようと思います。

これは私の大学時代からの主張であり、障害者福祉に端を発する私の福祉観の根底でもあり、介護観の基礎でもあります。
だからこそ現在の私の活動は要介護者への直接的介護ではなく、将来介護を受けることになる全ての若年層、中高年層に対するパーソナルトレーナーとなっているわけでもあります。

それでは本編、最後までお付き合いいただければ幸いです。

そもそも福祉とは

そもそも福祉とは、特に日本においてその原型は戦傷者保障です。
戦争によって傷病を負った兵士に対し、戦後の生活を保障しようという考え方です。
同時に、貧困対策として実施される救貧法などの考え方と融合され、社会福祉という法制度が整備されていくことになります。

これらは全くの別物であり別々の歴史的背景を持つわけですが、世界中の福祉施策が貧困(失業)と傷病に対する救済を目的として法整備してきたという流れに大きな違いはありません。

この二つの共通点は「本人の過失に関係なく、人生に突然訪れる予測不可能な不幸である」という点です。

社会福祉とはこのような「全ての国民に同時にリスクが存在する予測も回避も出来ない危機に対し、税金によってセーフティネットを準備しよう」という制度であるわけです。

この様な考え方がベースとして存在するため、現在病気でない全ての国民から健康保険料を徴収することで病気になった誰かを救済し、現在雇用される全ての従業員から雇用保険を徴収して突然解雇された誰かの当面の生活を保障しているわけです。

かつては介護も福祉であった

かつては介護も福祉でした。
昭和以前の世の中では介護が必要になる年齢まで長生きするという事態がそもそも稀でした。
更に子と両親に加えて祖父母までが同居する拡大家族が標準的な家庭環境であり、介護を家族が負担することも比較的容易でもありました。
その時代において、子の責任で親の面倒を見ることが出来ないという状態は予測できない事態であり、子の早逝や貧困などの回避できない危機によって訪れる不幸であった訳です。

しかし、現代では事情が大きく異なります。

特に大きな病気や事故がなければ多くの人は80歳を超えて長生きし、標準的な家庭環境は核家族です。
一人もしくは二人で老年を迎えて高齢期を生き延びる必要性があるという状態は、確かに回避は出来ないものの予測は容易です。

これは、いわば学校入学や成人などのライフイベントと同様です。
回避できずに訪れるものの予測は可能であり、多くの子育て世帯が事前に学資保険の加入や貯蓄を開始して準備するのと大差ありません。

つまり、予測できた事態なのだから準備しておくべきであるという考え方です。
これは記憶に新しい金融庁の2000万円問題の報告書と近い考え方であり、私は例の報告書を違和感なく受け入れることが出来ました。
年金は老後の貧困救済のセーフティネットとして整備される制度ではなく、子供手当てのような補助的制度に過ぎないはずなのです。

自己責任として老後の生活に備えるために

私は全ての日本人は蓄財や退職後の趣味作り、健康な身体作りに勤しむべきであると考えています。
老化は予測できるからです。
100歳まで生きてしまう可能性は決して低くないのです。

身体は100万年前からDNAが殆ど変化していません。
その時代の人類からすれば身体能力のピークは15歳で十分であり、50歳以降の視力や聴力や消化器官の能力は無用の長物に他なりません。

そんな身体を100年使おうというのです。
私は20歳から準備を始めても早すぎることは無いと考えています。
現在運動習慣がないという画面の前のアナタ。

明日は一駅歩いて階段を選んでみませんか?

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