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父の本箱

父の葬儀は母の方針で家族だけで行った。坊さんと家族の他数人だけの、きわめてあっさりした葬式だった。母は一人っ子で、付き合いのある親類はいなかったし、近所にもわざわざ知らせたりしなかった。町内会の素気ないお知らせを見て、それでも来る気になった数人だけ。

最近ではこじんまりした家族葬がはやりというし、数年前の義父の葬儀も似たようなものだったので、特に違和感はなかったが、父親なんて所詮はこうなる運命なのだという一抹の寂しさは残った。

母は葬儀の間もずっと冷静で、特に取り乱すこともなかったし、とうぜんのようにわたしたち子供も悲しみを強く表現するというわけにもいかず、坊さんは父が大学で教えていたことを知っていたせいか、浄土宗のむずかしい講釈を始めたりで、なんだか釈然としない感じではあったが、粛々と葬儀は進行し、なんの問題もないまま無事終了したのだった。

誰も泣かなかったドライな葬式だったが、父は湿っぽいのは嫌いだったな、と考えることで納得したふりをしたような、しなかったような。

父が亡くなって葬儀までの数日、実家には久しぶりに家族が集まった。さすがにこのときばかりは、父の思い出話に花が咲いたが、写真嫌いの父の写真はほとんどなく、したがってアルバムもなく、あるのは父の研究していたトマトの写真ばかりだったが、とにかく手当たり次第に書庫にしまわれていたアルバムを開いていくと、1970年に大阪の万博に行った時のアルバムが出てきた。わたしが50年前に作ったものである。

このとき父は、仕事が忙しかったのか行きも帰りも別行動で、肝心の万博会場にも一日しか来なかったのだが、なにより驚きだったのは、その時の父の写真すらアルバムには一枚もなかったことだった。カメラはたぶんわたしが持っていたので、父を撮ろうとはまったく思わなかったのだろう。もっとも万博会場では、人よりも物を撮ることにわたしは夢中になっていた。父以外の家族もほとんど撮っておらず、パビリオンの写真ばかりだった。

だが、その中に家族のだれもが予想もしなかった意外な写真があった。母と思しき人物が、『シャレード』のヘップバーンのようなサングラスをかけてベンチに腰掛けていたのである。

「そういえば、そんなこともあったわね。お父さんは知らないんじゃないかな」と母は意味深なことをいって笑った。

結局、父を偲ぶものは、2011年の震災の時に壊れて修理したガラス扉付きの木製の本箱だけだった。家族のアルバムはそこに片づけられていたのである。入り婿だった父の結婚前からのほぼ唯一の家財道具だったらしく、震災では横倒しになってかなり派手に壊れたのだが、父がこだわってわざわざ修理させたのだという。

普段はまったく顧みられることのないアルバムのしまい場所として、寝室の片隅にそれは置かれていたのだった。

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母が住む実家で週末ごとに過ごす日々。 母との大切な時間を綴る。