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伊勢佐木町で会いましょう

九月二十一日は、敬老の日、二十二日は秋分の日で、土日から続けて四連休だった。その二十二日には、たぶんお彼岸だからということで弟夫婦が娘二人を連れてきた。娘は、上の子が母と同じ幼稚園に通っていて、下の子も今年お受験だが、もちろん同じ幼稚園に行くつもりのようである。

弟夫婦は、まさか落とされはしないだろうと思いたがっているものの、実際には半信半疑のようだった。それは多分、母が、以前に、姉妹の二人目が落とされたという同窓生の話を嬉々として話していたからではないかと思う。さすがに今回は、そんなことはおくびにも出さずに、「大丈夫、大丈夫」と言い続けていたが、わたしもはっきり覚えているし、弟夫婦も忘れてはいないのだろう。それに、現実問題としてそんな事例はいくらでもあるのだし(わたしの妹が、まさにその幼稚園に入れなかったことは書いただろうか)。

母は、先週の四分音符の一件を未だにひきずっていた。弟からの電話を受けても母は脱力したままで、わたしは、母から「もうなにもする気がしないので、なにも作らないから、代わりにケーキを買ってきてくれ」と言われて代金も渡されていた。

ところが、二十二日の朝になって、わたしがいつものように5時半に起きていくと、母はすでにサトイモの煮っ転がしを作っていた。まあ、いつものパターンではあり、まだそこまで気力が衰えているわけではないことがわかって、少しほっとした。

もっとも、いまどきの園児がサトイモの煮っ転がしを喜ぶとはわたしにはとても思えなかった。だから、写真も撮れて録音もできる(もちろんゲームもできる)腕時計を母にみせびらかすモダンな娘たちに、このサトイモ(とお彼岸のおはぎ)がけっこう好評だったのは意外だった。

なぜか、わたしが買ってきたモンブランは不評であった。モンブランが売りの店だが、まるで子供向けではないからしかたないとは思った。余ったモンブランは翌日の朝食に出てきた。

週末の二十六日には妹夫婦も来た。こちらは、最近一週おきに来るようになっており、特にお彼岸だからというわけではなさそうだった。妹夫婦の娘たちは二人とも三十を過ぎているので、今は孫娘たちに夢中である。母からするとひ孫ということになる。全くの偶然だが、弟夫婦の娘二人と、妹夫婦の孫娘二人は、どちらもほぼ同い年なので、やっていることもいつも同じようなことになり、必然的に、妹が弟夫婦の子供(姪にあたる)の動向を気にするのは仕方のないことである。それで、妹は、姪が姉妹で全く同じものを持っているという話を聞いて溜息をつくのであった(さすがに写真を撮れる腕時計はひとつだった。かなり高かったようである)。

そんなこんなで久しぶりににぎやかな一週間だった。しかも翌二十四日と二十五日にはわたしは出勤で、けっこう慌しかったのである。だから、なのかどうかはよくわからないのだが、土曜日の昼食の時、母が若い頃の仕事の話を始めた。初めて聞く話だった。

母は、横浜にあった野澤屋というデパートの縫製を請け負っていたという。父の給料が月7,000円の時代に12,000円になったといい、そんなに悪くない仕事だと思ったという。

それは、何かの用事で伊勢佐木町を歩いているときに、縫製のヒトを募集する張り紙をみつけたのが最初だった。昭和三十年ごろのことで、母は、洋裁の専門学校を出たが、どこにも就職していなかったのだった。

店に行くと翌日から来てくれと言われ、働き始めた。それは小さな店だったらしいが、たくさんのお針子さんがいたというから、そんなに小さくはなかったのかもしれない。いろいろな階層の人のいろいろな服の仕事があったという。高級な婦人服からバーのホステスの衣裳まで実にいろいろだった。

働き始めてすぐに、店のひとが、あなたにはもっと良いところがあるから、と言って紹介してくれたのが野澤屋で、その店では一着仕上げただけで、すぐに野澤屋に移ったということだった。そのころ、横浜には、野澤屋と松屋という百貨店があったが、その後、横浜駅に高島屋ができると急速にさびれて、どちらも潰れてしまった(わたしは高島屋しかしらない)。

野澤屋の仕事は制服で、お給料は良かったが、いつも紺の生地で同じ物を作るので退屈だったという。そのうち、どこで知り合ったかアパレル関係の人から、デザイン画と生地を貰って、画の通りに服を仕立てる仕事を請け負った。あるのはデザイン画だけで、作り方は自由だったという。アパレルの人は、母が作った実際の服を見本にしてお針子さんたちに大量生産させていたようで、見本を作る仕事だったらしい、と母はいうが、自分でも正確なことは知らないようだった。

アパレルの人は、母に独立するように強く勧めたという。でも、そんなことしてもねえ、と母は言って笑った。

もっとも、その後わたしが小学校に入るころには、アトリエを作って、近所の人のオーダーメイドの服を作っていたことを覚えている。わたしの服も何着か作ってもらった記憶があるのだが、なぜか既製服の方が高級だと思い込んでいたわたしは、母が作る服が恥ずかしくて仕方なかったのも事実である。

母がプロだとは知らなかったのだから仕方ないとは思うが、そのことに気付くまでにはさらに長い歳月を必要としたのである。小学生の頃、なんで母は新しい服を作ってくれないのかと思ったことがあった。たぶん、最初に嫌がったからだと気付いたのは大人になってからである。そんなに嫌だとさわいだことはないのだが、気持ちの上では嫌で嫌で仕方なかったのだし、それはさすがに母にはぜんぶわかってしまったのだろう。そもそもなんでそんなに嫌だったのかすら今のわたしには思い出せないのだけれど、そんなのはただの言い訳だ。

男子と女子の価値観(と住む世界)がまるで違っていることに気付いた最初だった、と気付いたのもずいぶん後になってからなのだった。

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母が住む実家で週末ごとに過ごす日々。 母との大切な時間を綴る。