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「脳卒中で倒れたら」

「脳卒中で倒れたら、そのまま逝きたい」というのがうちの母の口癖である。身体に障害が残るのはもちろん嫌だが、それ以上に認知症になるのが嫌だからだという。それこそ、ボケずに済むなら死んでもいいと本気で考えているようで、実際にそう言ったりもするのだった。

「中途半端に助かったら嫌だから、わたしのときは救急車呼ばなくていいからね」

テレビで認知症の予防になる食べ物のバラエティ番組をみていると、急に思い出したように母が言い出したので、ああまたはじまった、と思った。

「うちに僕がいるときに倒れる可能性はむしろ低いんじゃないの」とわたしは言う。

「道端で倒れたら、みんな放っておいてくれるかしら」

「倒れている人を見て見ぬふりするのは道義的に許されないだろ」とわたしは答える。

「でも、寝たきりになったり、植物状態になるのは困るわ。なにもしないようにお医者さんに頼めないかしら」

「医師や救急隊員は、助けなかったら法律で処罰されるから、かならず助けると思うよ。僕らも、家族が苦しんでいるのを放置したら処罰されるんじゃないのかな」とわたしは答える。

実際の法律がどうなっているか詳しいことは知らないが、自殺する人を傍で傍観していて自殺ほう助に問われることもあるのだから、当然死にそうな人は助けなければいけないと思う。ましてや医師や救急隊員はそれが仕事なのだから、それをしなかったら罪に問われるだろう。

むしろわたしが心配しているのは、一人暮らしでだれにも気付かれずに亡くなることのほうなのだが、本人はそちらのほうは心配ではないらしい。死んでしまえばおしまいで後は別に気にならないようだ。その割には自分の戒名の字数にはやたらにこだわるのだから、よくわからない。

実際のところ、一人暮らしをしていても、地域での生活基盤のある人が、誰にも気づかれずに孤独死することはそれほど多くはないらしい。東京都の統計では孤独死は同年代の一人暮らし 1,000 人当たりで 10 人に満たない。人が死にかけていることは早晩だれかに気づかれる。だとしたら、中途半端に放置されてかえって重い障害が残るよりもいち早く治療して軽度の障害ですませることを考えるべきだろう。医療行為は当然そのような前提で成り立っている。それでも死にたい人は死ねばいいが、ほんとうに死にたいのか、最後の最後までその覚悟が変わらないでいられるという保証はどこにもない。

もちろん母は別にそんな真剣な話を実際にはしているわけではないのだ。単に思いつき(というか、一種の思い込み)を話しているだけである。それは長い付き合いなので子供のわたしにはよくわかっている。だから適当に受け答えしているのである。

「ボケちゃったら、アイ子は面倒見てくれないわよねえ」と母は同意を求めるようにちらっとわたしを見ながらつぶやく。アイ子というのは長女のことだ。母には、長男のわたし、長女のアイ子、次男の清二の三人の子供がいる。三人とも結婚して独立しているので、実家には今は母しかいない。母が倒れたら子供のだれかが面倒をみなければならないが、わたし(の妻)には最初から期待していないようだ。実の娘のほうが良いだろうとはわたしも思う。

だが、現実にはどうなのだろう。それは全く想像できない未知の世界である。

認知症になりたくないというのは、突き詰めれば、介護に不安があるからだといえるだろう。準備をするにしても、実際に介護は他者への全面的な依存であり、金銭的に余裕があればともかく、うちのようなごくごく一般的な家庭では、家族のだれかが犠牲になる可能性が高い。犠牲とまでいかなくても、限りなく迷惑をかけることになるだろう。迷惑だけでなく、ボケてしまった自分の醜態を身内に曝したくないという気持ちもあるだろう。ならばいっそポックリ逝ってしまおうと考えるのが、気持ちの上では整理をつけ易いのだろう。

いずれ母とはもっと真剣に話す日がくるのかもしれないが、今のところはまるで現実味がない日々が続いているのである。ある意味それは幸せなことであるけれども。

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母が住む実家で週末ごとに過ごす日々。 母との大切な時間を綴る。