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『読者に憐れみを』

最近読んだ『読者に憐れみを』というカート・ヴォネガットの本に、「物語が書けない者は本が出せない。物語を作ることは極めて稀にしか見られない才能だ。きれいな文章が書けるだけではだめなのだ」と(まあだいだいそのような意味のことが)書かれていて愕然とした。うすうすわかっていたことではあったが、やはり物語を作れない人間は作家にはなれないのだ、と思った。

最初その言葉をみたときは、カート・ヴォネガットがそんな発言をしていたことにかなり強いショックを受けた。物語が作れなくても、作家になることはできるのではないか、と最近日本の小説をいくつか読んで思い始めていたところだったからである。ヴォネガットは、わたしが中学生のころお手本にした二人の作家のうちのひとりだったから、特にショックが大きかった。

日本には、学生時代に伊豆を一人旅したことを、ほとんどそのまま書いてノーベル賞を取った作家もいるし、精神に明らかに変調をきたした妻と子供2人との生活をほぼそのまま書いて傑作をものした作家もいる。日記をだいたいそのまま書き写しただけでベストセラーにした作家だっているではないか。それらは稀有な例に過ぎないとしても、一般に日本の小説は個人的な体験との距離が近いものが多いということはいえると思う。

それに比べると、たしかに欧米の小説は、もう少し体験と作品の距離が離れているものが多いというのは事実だろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』がゲーテ自身の体験に基づくものだというのは有名な話であるが、彼はウェルテルと異なり自殺はしなかった。『失われたときを求めて』は、プルーストの個人的体験に満ちているらしいが、愛人の性別が異なっていたり、主人公がストレートだったりするといった違いがあるらしい。

そしてもちろんのこと、ヴォネガットの『スローターハウス5』では、自身がドイツ軍の捕虜となってドレスデンで体験した連合軍の空爆が物語の中心にあるが、表面的な物語は純粋なSFであり、だれもヴォネガット自身がトラルファマドール星人に誘拐されたなどとは思わない。

とはいうものの、それは小説に限った話である。イサク・ディネセンの『アフリカの日々』は、有名な映画の原作にもなっているが、小説ではなく自伝的エッセイであり、書かれているエピソードもほとんどが創作ではなくて事実であろう。ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』は一風変わった旅行記であるが、一応彼自身の旅行の跡を順にたどりつつ、関連するエピソードが独立して語られており、これも創作ではないだろう。

だが、どちらも傑作である。それをヴォネガットは否定するような発言をしたのだろうか。発言の真意が気になって、引用の元文献をしらべてみることにした。幸い、本には完全な引用文献リストがあった(翻訳書ではしばしば省略される)ので、いったい、ヴォネガットのどんなエッセイなのだろうかと興味津々でみてみると……

なんのことはない。それは、ヴォネガットの発言ではなかったのだった。わたしは『読者に憐れみを』という本がヴォネガットの発言だけを引用したものだと思い込んでいたので、まさか別の人間の発言が入っているなんて思いもしなかったのである。

『読者に憐れみを』は、カート・ヴォネガットの残した文章を教え子のスザンヌ・マッコーネルが引用しつつ独自の文章読本にまとめあげたものであり、マッコーネルが地の文を書き、そこにヴォネガットからの引用が挟まる形式になっている(内容の6割がヴォネガット自身の言葉であることが執筆条件だったという)。地の文にカッコで引用されている発言もヴォネガットのものが大半で、だからわたしは誰の発言かいちいち細かく書かれた部分はさして気にも留めずに流し読みしていた。

ところが、くだんの発言の部分はそうではなかったのである。言ったのはシドニー・オフィットという作家で、ヴォネガットについてのインタビューの中での発言からの引用だった(わたしが勝手に読み飛ばしてしまっていたのである)。発言者のオフィットは、ヴォネガットについてのインタビューの中で、ヴォネガットが言ったこととして発言しているのではなく、純粋に自分の経験として発言していた。ヴォネガットには何の関係もなかった。

わたしは勉強不足で、じつのところスザンヌ・マッコーネルもシドニー・オフィットもこれまで聞いたことがなかったが、米国の編集者兼作家であるらしい。マッコーネルは本書で、オフィットはヴォネガットの短編集の編纂によって、ヴォネガットに深い関係を有する人物なので、これはヴォネガットにたいするオマージュのひとつととらえるべきなのだろうと思った。

日本語訳もすこしわかりにくいものだった。わたしは、それを『指輪物語』や『レ・ミゼラブル』のような物語を作る才能のことだと受け取ったのだが、オフィットのインタビューの原文をみてみると、「物語を語る才能、つくる才能」の原文は、「the gift for narrative, for storytelling」(1)となっていて、これはおとぎ話を作り出す才能というよりは、面白おかしく他人に話してきかせる才能であって、それが「poetic prose or elegant language」(詩的または優雅に表現する)の才能よりも稀だと言っているのだった。それならまさしく『アフリカの日々』も『パタゴニア』もそのような書物といえるだろうと思い、なんとなく安心した。

「物語を語る才能」のきわめつけの例は、まさしく本書『読者に憐れみを』それ自体であったかもしれない。この本は、2007年に亡くなったヴォネガットの著作や未公開文書、関係者へのインタビュー、著者の個人的体験などをほうりこんで、ひとつの文章読本のようなものを作りだしているのだが、まさしく優れたナラティブの産物といえるのではないかと思った。

そこには、おとぎ話のような「物語」は存在しない。読んでいくうちに読者は、最初「あなたも作家になれる」的な勇気をもらいつつ、次第にヴォネガットの偉大さに打ちのめされていくのである。それがヴォネガットからの引用と、ヴォネガットその人に親しく接した経験に裏打ちされて、読む者にもひしひしと伝わってくる。その読書体験は貴重であり、ひとつのすぐれたノンフィクションになっているような気がした。

ゲーテとエッカーマンのようだといったらいくら何でも言い過ぎだろうか。いや、ここまで書くとさすがに嫌味かな……

(1)The Library of America interviews Sidney Offit about Kurt Vonnegut)
https://loa-shared.s3.amazonaws.com/static/pdf/LOA_Offit_on_Vonnegut.pdf 最終アクセス日20220731。

(失われた旅行記を求めてVII)


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