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サイタ サイタ サクラガ サイタ

まだ緊急事態宣言が出る前の四月の最初の日曜日のこと。今年はさくらの時期が長く、その日もまだほとんど散り始めていなかった。

「さくらの葉が大きくなって花が隠れて見えないの」と母が昼御飯の時に窓の外のさくらを見ながらいった。

実家のさくらは葉桜なので、例年だと葉の方が先にでるのだが、今年は陽気のせいで開花した時はまだほとんど葉がでていなかった。でも葉の成長は早いので、みるみるうちに葉のほうが多く茂って、とうとう花が隠れてみえなくなってしまったのである。みえない、というのはさすがにオーバーだが、本当にのぞきこまないとわからないくらいになっていた。

(たしかに花はそのままついているのに、のぞきこまないとわからないくらい葉が茂っている)と思いながら、わたしがぼんやり外の桜を見ていると、とつぜん母が、

「あのねえ」と言った。

わたしが、なにかさくらの思い出話をはじめるのかと思って聞いていると、

「大の大人が鼻をしゅんしゅんやってるのはみっともないから、はやくかみなさい」とピシャリと言われた。

いわれてはじめて、鼻をすすっていたことに気付いた。

食べ始めたばかりで、わずかの間だと思うのに、それが気になって言わないと気が済まないのがうちの母である。桜がきれいな話じゃないのかよ、と思ったが、まあいつものことだった。

ちなみに、母はたいていのコメディアンが「大嫌い」なので、その週末はどこのメディアでも大々的に報じていた某国民的アイドルの芸人さんがコロナで亡くなったニュースをみてもひとこともコメントしなかった。まあわかっていたことだ。もちろんわたしから話題を振って墓穴を掘るようなまねはしない。

「今日は、お昼御飯にホタテと竹輪の甘辛煮を作ったんだけど、焦げ付かせちゃって真黒になっちゃったの」と母がいう。焦げ臭いとは思ったが、まさか自分の家でとは思わず、気付いたら手遅れだったとか。

実際食べられないほど真黒になっていて、母も残しときなさい、と言ったが、皿に盛り付けたということは、食べられるという思いがどこかにあるからだとわたしは思った。でもさすがに一口食べてこれは無理だと思って残した。

「おなべこげつかせたのなんてはじめてよ。」というが、最近数カ月おきにその手の調理上の失敗を繰り返しては、「はじめてよ」宣言をしているところが、明らかに認知症の前兆ではないのか。不安である。そんなとき、たいてい前回の失敗は小学生の時までさかのぼるのだ。まさか70年分の記憶がなくなっているわけでもないだろうに。

「あたしもやきがまわったねえ」というのが決まり文句である。

みると顔が真っ赤だった。紅をさしたように赤くて明らかに異常にみえるが、本人には自覚がないようだ。高血圧のせいだろうか。大丈夫なのだろうか。

「お向かいの嫁さんを何年ぶりかで見かけたら、腰が大きく曲がってしまっていた。まだ若いはずなのに」という。わたしより十歳以上上だったはずなのでたぶん今年70-75歳くらいではないか。

「今日は小鳥がこないねえ。さくらの木の下で、木洩れ日の中で見上げるとさくらが満開で気持ち良いのよ」と言った。

(そうそう。ひとの肉体的欠陥のことなんか指摘せずに、最初にそれを言ってくれよ)と思いながら、窓の外の満開のさくらを見上げた。


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