見出し画像

続・ひとりで幼稚園に通ったこと

ながさごだいすけ

わたしの幼稚園をみつけてきたのは、母ではなく、意外なことに父であった。今回、母に聞いて初めて知った。父の知り合いがその幼稚園を付属とする高校にいたのだという。

なるほど、父はそのころ、大学に残れずに付属高校で英語か化学(あるいは両方)を教えていたので、他の高校に知り合いがいてもおかしくない、と話を聞いたとき、わたしは思った。母がわたしの進学の話をしたときに、それなら、ということになったのではないだろうか。父が、自分から、子供の進路のことを言いだすとはとても思えなかった。

でも、意外とそうではなかったのかもしれないと、この歳になって改めて振り返ってみて思うのである。父は高等師範を出たがちがちの教育者だったはずだからである。

父は、婿養子だったので、祖父母が生きていたときは、夜中まで家に帰ってこなかったから、ふだんは朝食のときに会うだけの存在だった。まれに父と二人で出かけることもあったが、共通の話題がないので、たいてい黙っていたように思う。

子供のことはすべて母に任せているように思っていたし、実際わたしも妹も、すべてを母と相談して(というよりはほぼ一方的に言われて)決めていたように思う。父が会話に加わることはなかった(それ以前にその場にいなかった)。

でも、たとえば、我が家で妹のためにピアノを買ったとき、父が『オールドブラックジョー』を弾きながら歌ってくれたことがあったのを思い出す。小学校の教師をしていたときに覚えたと言った気がする。他にも同じフォスターの『スワニー河』を確か弾いたように思う。

高校教師をしているときは、休みの日にときどき教え子が家に遊びに来ていたような気もする。古希のパーティには、高校の教え子がたくさん来ていて、その中の何人かはわたしも顔を覚えていた。それくらいしょっちゅう遊びに来ていたのだ。

わたしが大阪の大学院に行っているとき、たまたま実家の近くで学会があって、研究室の先生方が何人か上京して来たことがあった。それを知った父がご馳走するというので、中華料理を食べに行ったのだが、父は、初対面の先生方を相手に食事の間中、ずっと話をし続けていた。

家ではまったく話さないので、無口な人なのだと思っていたら、実は人前で話すのは大の得意で、それも長年の教師生活のたまものらしかった。そのときはじめて、家に教え子がいつも来ていた理由が分かった気がした。

そんな教育者の父が、わたしの教育のことにまったく無関心だったとは思えない。絶対になにか裏があったような気がするのだが、残念ながらもう聞くことはできないのだった。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!