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コーラス会の会計報告 ~後編~

コーラス会といっても、会計報告に変わったことがあるわけではない。一年間の収入と支出を別々に、月別・費目別に集計していき、最後に収入の総計と支出の総計を出して、その差額を次年度分に繰り越す。その繰越金額が、預金残高と同じであれば、全体として問題はないことになる。

いつもはそれで済んでいたが、去年は違った。預金残高と収支決算報告が合わなかったのである。15,000円の差額が出てしまった。しかも、なぜか預金のほうが余ってしまっていた。知らないうちにお金が沸いた、というわけなのだった。

その計算をしている現場に(というのもいつものTVのある実家の居間だったからだが)居合わせたわたしは、即座に、自分の財布から出して忘れてるんだろう、と言ったが、母の答えは「うちは貧乏だからありえない」だった。

ということで、すぐに考えられたのは、収入の記載漏れだった。出て行く方にはきびしくても、入ってくる方にルーズなのが人間である。とはいえ、十人しか会員がいない無名のコーラス会の収入なんて前年度からの繰り越しと会費以外にあるはずもない。会費は休んだ月は徴収しないので、月ごとの収入は一定ではない可能性もあるが、それでもたかだか十人である。実際には、休みはなく、収入の記載に問題はないことがわかった。

次に考えられるのは、支出の記載漏れである。会計係が1人だけの場合、銀行の出し入れがだんだんルーズになって、手元にお金を置いてそれでやりくりすることは、小さな組織ではよくあることだ。母に聞くと、そんなのは当たり前だと即答された。毎回毎回銀行などに行っていられるわけがないというのである。でも毎日であれば面倒なことはわかるが、月に一回か二回なのにと、とりあえずわたしも過去に会計係をやった経験からあえて反論すると、「その一回か二回が面倒臭いんじゃないの」とにべもなく言い返された。

だが、一年十二カ月で費目数もせいぜい五項目であり、その大半が空欄であるとなると、その中で15,000円もの大金が動く機会は限られてくる。会場費は数百円単位だから、あとは先生に払う費用しかない。しかも、先生に払う月々の謝礼が15,000円だった。となれば、導かれる結論はただひとつ。

先生に謝礼を払っていない月がある!

でも、母はそれはあり得ないことだと言った。というのも、月ごとに出納簿をつけており、払ってもいないのに、そこに記帳するはずはないからだ。不安に思った母は、先生に手渡す係の会長と先生本人にも直接確認したが、会長は渡さなかったことはないと言い、先生も貰わなかったことはないと、キッパリ言いきったというのであった。

いずれにせよ、手元に15,000円の余りがあり、会計をひとりでやっていて他人から借りたりはぜったいにしておらず、だれも自分が損をしたと主張していないのだから、常識的に考えればその15,000円は母の懐から出たものに間違いない、とわたしはあくまで主張し、だから母が懐に収めて、それでめでたしめでたしで良いではないか、とわたしは言ったが、母は納得しなかった。まあ、確かにそれを認めると、母が会計をいい加減にしたという事実を認めることになるのだから、認められないというのもわからないでもなかった。

母は自分の過ちを認める代わりに、実は先生に手渡す封筒に現金を入れ忘れたのだろう、と言いだした。それでも母の過ちであることに変わりはない。でも、その場合には封筒を確認する人間が二人(会長と先生)増えるので、母の罪悪感がだいぶ減るということらしかった。会長は中身を確かめなったのが悪いのであり、先生にいたっては、妙なプライドが邪魔をして、貧乏な我々に同情したのかしなかったのか、封筒に入ってなかったとは言えなかった、あるいは先生もぼけてしまっていて、わざわざ確認しなかったので、いまさら入ってなかったとは言えなかったのだ、というのである。

空の封筒を、相手を慮って黙って受け取り、後で聞かれても頑なに否定する、というのはいくらお嬢様学校の卒業生(先生ももちろんそうである)でも行き過ぎじゃないかと思ったが、母の主張によれば、そんなことは当然であるらしかった。女学校に行ったことがないのでわたしには反論のしようがなかったし、もうはっきりいってどうでもよくなり、なんだかいつも脱力して終わるような気もするが、事実なのだからどうしようもないのであった。

わたしは、母の主張はともかく、毎月の収入が15,000円減ったら嫌だと思うのがふつうだろうと思う。だからそれを言わないのは、母が怖い(?)のか、あるいは母に同情してのことではないかと思う。考えてみるまでもなく、収支計算が合わないのがボケのせいだというのはいかにもありそうである。わたしは週二日朝から晩まで母をみているので、まだボケてはいないと断言できるが、週1回2時間程度しか合わなければ、やはり年齢的にもボケを疑うだろう。あるいは、わたしには気が付かない兆候がもっと他にもあるのかもしれず、それを知っているみんなが母に同情しているのではないか、ということである。

ああ、如何にもありそうではある。でも、こわくてまだ確かめる気にはならないのである。

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母が住む実家で週末ごとに過ごす日々。 母との大切な時間を綴る。