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キリスト教の話

私はここアメリカの、オハイオ州の都市シンシナティ近郊の街で働いています。この地に渡ってから、キリスト教(主にプロテスタント)について知りました。これから何度かにわたり、キリスト教について綴りたいと思います。

宗教怖い

”宗教”と聞いただけで「怖っ」と思ったり、薄暗い地下の祭壇とか儀式とか生贄とかを想像してしまう人って、意外と多いのではないでしょうか。そういう方は、宗教アレルギーもしくは宗教とカルトの区別が付いていない可能性が高いように思います。

などと知ったような口を利く私自身も、日本に住んでいた頃は宗教と聞いただけで不穏なものを想像していました。宗教=洗脳というようなイメージです。だからアメリカに来て間もない頃、各所にある教会での様々なイベントに招待してもらったり、そこで会った人たちにやたら親切にしてもらったりすると、どうしても何か警戒してしまったものです。

しかし結論から言うと、こちらで出会ったクリスチャンの方々は、ただ単に滅茶苦茶親切で優しい人たちなのでした。

例えばホラー映画では、当初親切だった人たちの様子がだんだんおかしくなってゆき、実は彼らはカルト教団だったことが判明するというようなパターンは枚挙に暇がありません。それゆえ、宗教+親切の組み合わせに私は気味の悪さを感じていたのです。ホラー映画見過ぎだっつーの。

こちらで4年も過ごすと、そういう過去の認識がいかに偏見に満ちたものだったかが分かってきます。私が知り合った人たちはただただ親切なばかりで、ホラー映画ならその後に来るだろう恐怖やサスペンスが一向に気配を見せません。寄付と称して金銭を要求されるようなこともありません。展開を訝しんだ私は彼らの思想を理解したくなり、やがて聖書を読み始めました。当然、彼らの親切心はキリスト教のみに由来するものではないでしょう。しかし彼らと私の接点が教会だった以上、まずはそこを足掛かりにするのが正攻法というものです。友人や牧師さんに話を聞いたり質問したりもして、キリスト教というものについて、日本にいた頃よりはずいぶん詳しくなったつもりです。

日本における宗教観

広辞苑によると宗教とは、”神または何らかの超越的絶対者、(中略)神聖なものに対する信仰・行事”とあります。つまり、この人間社会や物理的宇宙を超えたところに存在する何者かを信じる行為と言えるでしょう。

人類が宗教を生み出した、あるいは見つけ出したのがいつのことなのかは分かりませんが、世界史によれば文字が開発されるより前、紀元前数千年、あるいは数万年という古い時代から存在していたようです。宗教や信仰が脳の発達により出現したものならば、それらは人間の精神活動と切っても切れない関係にあるはずです。

例えば日本に住んでいると、”自分は無宗教、もしくは特定の信仰を持たない”と主張する人が結構います。私もその一人でした。しかし、各種宗教行事から完全に無縁でいることは、普通に生活している限り困難です。新年になれば神社に初詣に行くし、節分には豆まきをして鬼を祓い恵方巻を食べる。雛人形や五月人形を飾って子どもの幸せな未来を祈るし、お盆には先祖の墓参りをする。ハロウィンではお化けの仮装をし、クリスマスにはサンタクロースがプレゼントを持ってくる。大晦日にはお寺で除夜の鐘を撞き煩悩を振り払う。お葬式や法事でお坊さんを呼び、結婚式は神社や教会で夫婦の契約を結ぶ。

これらは全て宗教的行事ですよね。いずれも人間を超越した何らかの存在を仮定し、その存在に何らかの祈りを捧げています。(日本におけるハロウィンやクリスマスは微妙なところですが)何にせよ神道やら仏教やらキリスト教やら、八百万の神々もびっくりのお祭り騒ぎ。さらには、朝のワイドショーの星座占いコーナーや姓名判断、血液型占いに手相占い、しいたけ占い(これは結構好きです)などなど、これらも全て、第三者からもたらされる宗教的アドバイスと言えます。

これだけ宗教的価値観が氾濫する社会においてなお自らを無宗教と規定することは、むしろ特定の信仰を持たないからこそ何でも信じてしまうことに似ています。そうした態度に、知らない大人について行ってしまう幼児のような危うさを覚えるのは、私だけではないでしょう。

キリスト教とは

世界三大宗教の一つである、言わずと知れたキリスト教は、約2000年前にユダヤ教から派生しました。現在、”旧約”聖書と呼ばれているものがユダヤ教の聖典であり、律法(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に記されたことを厳守するというのが当時の教えでした。ユダヤ民族の救済を唱えたこの教えに対し、イエスが異を唱えます。悔い改め、神を信じる者であれば誰でも天の国へ入れると説いたのです。そして病人を癒したり、少量のパンをめちゃくちゃ増やして数千人に配ったり、死者を蘇らせるといった奇跡を各地で行ないました。その奇跡と斬新な教えで、彼は支持者を増やしてゆきます。当時の権威であった律法学者やパリサイ派の人々にとって、これが面白いはずがありません。やがて彼らの画策により、イエスはゴルゴタの丘で処刑されるのですが、彼はそのこと自体も予期していました。そして死の三日後に復活し、昇天します。と、ここまでが新約聖書にある4種類の福音書に書かれていることです。

その後は弟子たちの熱心な布教により、信者の数は増加してゆきます。その教えが、ユダヤ教の祭儀についてゆけない人たちや異端とされる人たちをも救いうる内容であったことも、キリスト教が巨大化してゆく要因だったと思われます。

イエスの教えの中でも特に有名なものの一つに、”敵を自らのように愛し、迫害する者のために祈りなさい”というものがあります。こんなの普通に考えて無理じゃねえの、と私などは思ってしまいますが、だからこそ価値がある教えなのでしょう。少なくとも私が出会ったクリスチャンの皆さんは、どこの誰とも知らない、英語でろくすっぽ会話もできなかった当時の私にさえ親切にしてくれたのです。彼らの信じるものの先に、何か特別なものがあるのではと期待してしまうのも無理からぬところでしょう。

聖書を読んでみる

新約聖書は通読しましたが、旧約聖書はまだ途中です。何しろ量が多い。旧約のほうは時代背景が大きく異なることもあり、「はあ?」という部分も多々あります。女性を抑圧するような内容も随所に見られ、私としては正直好きではありません。ヨシュア記など、なんだこれ占領と虐殺の記録じゃねーかという感じで、これをどのように捉えれば良いのか、未だに理解できていません。

一方新約聖書のほうは、福音書でキリストの謎めいた活躍が読め、使徒行伝以降は倫理的・道徳的な記載が多く、納得しながら読める箇所が多くありました。しかしこちらも依然として男尊女卑的価値観がところどころに垣間見え、時代背景的な限界を感じます。

ちなみにYouVersionというアプリをダウンロードすれば、無料で聖書が読めます。多言語で様々な訳に対応しており、非常に良いアプリだと思います。

諸刃の剣

宗教や信仰というものは、科学や経済がそうであるように、使い方を誤れば容易に害悪となります。しかし、やはり科学や経済がそうであるように、上手く使えば人生を豊かにするための非常に優れたツールとなります。ツール呼ばわりなどされては困るという方もいるとは思いますが、こちとら未だ洗礼も受けていない身です。いわば野良犬の意見とでもお考え下さい。

中世ヨーロッパにおける十字軍の略奪や、ナチスドイツによる聖書を引用した選民思想などは、その最悪の例でしょう。暴力や迫害でさえ、信仰の名のもとに正当化されうるのです。宗教というのも刃物同様、取り扱い注意の代物です。

以降の記事でも、私がアメリカの地で触れたキリスト教と、そこで感じた事柄について記していこうと思います。

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