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宗教と信仰について

こんにちは。今回も宗教絡みのお話ですが、別に不穏な話ではない(と思う)のでご安心を。

教会と礼拝

私が住む場所は”バイブルベルト”と呼ばれる地域に含まれます。教会がそこかしこにあり、大きなものから小さなものまで、至るところで見かけます。それだけ教会というものが文化や地域に浸透しているのでしょう。

毎週日曜には、教会での礼拝があります。最近は足が遠のいていますが、キリスト教を学び始めた頃はよく行っていました。コロナ禍においてはオンライン礼拝に切り替わりましたが、最近は現場での礼拝が復活しています。

礼拝では牧師さんの説教を聞いたり讃美歌を歌ったりします。その前後では知り合い同士で世間話をしたりもして、信仰を深める場所としての側面以外にも、コミュニティの交流の場としても機能しているようです。私が行っていたのはプロテスタントの教会であることもあってか、礼拝の中身も、イメージしていたものとはずいぶん印象が違いました。具体的にどこが違ったのかというと…

・牧師の服装がカジュアル。参加者の服装もカジュアル。
・堅苦しい雰囲気が全然ない。
・讃美歌の演奏には、普通にギターやベースにドラム、キーボードが使われている。大きい教会になるとシンセサイザーも登場し、音響も迫力がある。
・讃美歌にポップで明るいものが多い。

礼拝は毎週日曜に各教会で開かれています。「礼拝」という字面からして、もっと厳粛で気難しいというか、何か静かで堅苦しいというか、一心不乱に神様に祈る場というか、勝手にそんな想像をしていた私には、こちらの礼拝は意外な場として映りました。

私が出会った教会が運良くどこもオープンだっただけで、場所によってはもっと閉鎖的、排他的だったりする可能性も、否定はできないんですけどね。

「神と和解せよ」への違和感

さて、少し話題を変えますが、黒地に白や黄色で書かれた「神と和解せよ」とか「死後さばきにあう」などの看板を、日本の田舎なんかではよく見かけます。ネット上では、一連の看板の”神”を”ネコ”と書き換えたネタ画像が溢れており、完全に玩具にされている感があります。あのネタ画像は正直大好きなのですが、それにしてもあの看板、何か気味が悪いと思いませんか。(だからこそ”ネコ”とのギャップが面白いのだと思いますが)

何が言いたいのか分からないけれど、ただ”圧”だけがある。

圧。これが曲者です。アメリカにおいても、片面に”JESUS IS REAL”、その裏に“HELL IS REAL”(イエスは実在する・地獄は実在する)と書かれた巨大な看板が高速道路沿いのだだっぴろい空地に立てられていたりします。へえ、HEAVENではなくHELLと書いちゃうんだそこ、と呆れました。”死後さばきにあう”と同じ論理です。キリストを信じなければさばきにあいますよ、悪いことがおきますよ、地獄に落ちますよ、ってそこまで直接言わないにせよ、何かそういう不安を匂わせる。

それ、宗教のあり方として”良い”と言えますか?

あくまで私見ですが、宗教は、少なくとも21世紀の宗教は、人間が心豊かに生きるためにこそ用いられるべきです。

そりゃあね、宗教には倫理や道徳、社会規範を説く機能も備わってはいるでしょう。”食べ物を粗末にしたら「もったいないお化け」が出ますよ”みたいなね。でも、”我々の宗教を信じないとバチが当たりますよ”というのは、倫理とも道徳とも社会規範とも無関係じゃないですか。愛と倫理を説いた教えなので信じたほうがお得ですよ、と言いたいのかもしれませんが、だったら素直にそう言え。「神と和解せよ」と書かれた看板を見て、「そっか、無宗教だった今までを悔い改めて、神と和解しなきゃ!」って思う奴が全世界に何人いるのでしょうか。

救いがあるのは、この世界か死後か

宗教を信じたり信じなかったりすることで、死後救われるのかあるいは裁きに遭うのか、それは誰にも分かりません。分かっていたら、宗教の在り方も変わるのではないでしょうか。もしも天国や地獄の実在が証明されれば、現世での利益に執着する人も激減するはずです。

それくらい、死への考え方と宗教は深く関わっていると思います。死後の世界の存在は、依然として誰にも証明できていないからでしょう。

さて、宗教というのは現実世界を超越した存在を信じることです。何故そんなことを必要があるのかと言えば、そうした方がより幸せな気持ちでこの現実世界を生きられるからに他なりません。死後に救われると思うことで、現実を幸せに生きられる。我々に日夜襲い掛かるあらゆる理不尽も非合理も、”神は越えられない試練は与えない”と思えばこそ立ち向かう気力も湧くというものです。”神を信じれば天国へ行ける”という説も、”悔い改めれば天国へ行ける”という説も、それらを信じることで手に入るのは、あくまで現実世界での安心であり救済なのです。死んだあとのことなんて、まだ誰にも確かなことは言えないのだから。三日間も死に続けてから復活したイエス本人なら分かるのでしょうが、彼は天に昇っていってしまいましたからね。

死後の救済を説くこと自体に異論はありませんが、それは死後救われると信じることで、現実の心が救われてこそです。そうでないなら、そんな教えはまやかしであり人類の敵です。「心が救われていない」と思いながら何かを信じざるを得ない状況というのがどれほどあるのかは分かりませんが、たとえば「これをしなければ地獄に落ちる」というような恐怖や焦燥に駆られて信仰に走るケースがあるのだとすれば、悲劇としか言いようがありません。

とりあえず、恐怖で支配したり脅したりするような真似は、百害あって一利なしだからやめろと言いたいですね。もちろん宗教団体の保持のためには資金が必要です。寄付やお布施を募る必要もあるでしょう。しかし団体存続のために信者に圧力をかけ、恐怖を与えて資金提供を強いるとしたら、それはメーカーが倒産するのを防ぐために、嘘をついて不良品を売るようなものです。本末転倒も甚だしい。

ちなみにこちらで出会った人たちの中には、そのような圧をかけてくる人は一人もいません。実にありがたい。本当に尊敬できる人たちばかりです。こういう風になれるんでしたら、へっへ、イエスの旦那、どうかあっしのことも入れてもらえませんかね、と揉み手をしたくもなります。

キリスト教信仰の要

アメリカに来て色々と学んでからというもの、その中心に愛を据え、信じるものなら誰でも神は歓迎するというイエスの教えは、かなりクールだと思うようになりました。

そこへ入信するには、”洗礼式”という儀式で洗礼を受ける必要があります。しかしどうやら、洗礼を受けなくてもキリスト教を信じるということはできるようなのです。つまり誰にでもキリスト教における救いを受ける権利があるということ。洗礼の有無に関わらず、死後天の国に入る権利は与えられているということです。

実際、日曜礼拝は基本的に誰にでも開かれていて、全くキリスト教ではない私や妻も、時折参加してお話を聞かせてもらっていました。

え、じゃあ別に洗礼受けなくても良くない?どんな人が洗礼を受けるの?という問いへの答えは、「キリスト教を信じる」と公言して生きてゆくことを決意した人だそうです。つまり、自分の信仰を確信できた人ですね。

一方、洗礼なしでも天の国に入れるということは、洗礼なしでもキリスト教信者として認められうることを意味します。これは一体どういうことなのか、以前こちらの牧師さんに尋ねたことがあります。いったいどうなれば、キリスト教を信じていると言えるのか。聖書を全部読むことなのか。毎週欠かさず礼拝に通うことか。

その牧師さん曰く、聖書も礼拝も強要されるものではないそうです。”イエスの復活を信じること”が肝要とのこと。死だけが万人に平等などとよく言われますが、イエスはそれを超越した。この宇宙を創造した神の御業によって、死した肉体さえも再び命を宿したという奇跡。これを信じられるかどうかが、一つの指針となるようです。

信じるとは?

でもさあ、無理じゃない?実際。と私は思います。死んで腐ってゆく肉体が、元に戻って生き返る。どう考えても起こりえないことです。しかしあるいはひょっとして、うっかりつまずいてぶちまけたコーヒーが、壁と床一面に聖書の膨大な文字列となって浮かび上がるような、そんなあり得ない偶然が無限に繰り返されるような確率の下でなら、ひょっとして起こりうる事象だったりするのかもしれません。それこそ、この世界の創造者にしかできない奇跡なわけです。

とはいえイエスの復活に対し、実は死んでいなかったとか、復活前後のイエスは別人でどちらかが影武者だったとか、そういうトリックがあったと考えるほうがよほど”ありそうな話”です。例えばヨガの達人ともなると、自分の心臓を一時的に止めること(正確には心室細動)さえ可能だと「苫米地英人と成瀬雅春の瞑想と認知科学の教科書」に書いてありました。え、お前さあ、その本に書いてあることだって相当トンデモなのに、そっちはすんなり信じるのかよ、という声が聞こえてきそうですが、そりゃそうです。一回完全に死んだ者が生き返るよりも、超絶的な心身の操作で自らを仮死状態にするほうが、まだ信じられる気がします。

ところでヨハネの福音書20-25~29には、イエスの弟子のトマスが登場します。彼は復活したイエスをその目で見、刺された脇腹にその手で触れるまで、本当にイエスが死から蘇ったのだということを信じることができませんでした。これまでイエスが起こしてきた数々の奇跡を目の当たりにしたはずの彼ですら、です。そんな彼にイエスが言います。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネの福音書 20-29

いやいやいや死者の復活なんて見るまで信じられませんよ!とトマスと共に叫びたいところですが、そこで、あれ?と思います。私の中の冷静な悪魔が、ここぞとばかりに意地悪く言います。

ヨガの達人は自分の心臓さえ止められるという話をお前は”まだ信じられる”と言ったよな。見てもいないのに。妻と付き合っていた学生時代、彼女と結婚できると信じていたよな。未来を見たのか?中学生の頃は、将来は作家か漫画家になれると信じていただろう。あの頃、将来はアメリカで普通の会社員をやっていると言われたら信じたか?保育園児の頃は、将来は忍者になれると信じていたよな。なんで?

見たから信じるのは簡単です。あるものをあると認めるだけですからね。でも実際、見ていないものを信じることだってできるのです。もちろん、そこには覚悟が必要な場合もあります。叶わぬ願いかもしれない。上手く行かないかもしれない。全部嘘かもしれない。そうした、決してゼロにはできないリスクを全て引き受けて、目指すものを見つめて進む。私たちは皆そうして生きてきたのではないでしょうか。自ら主体的に、信じると決めることによって。

たとえば認知科学者の苫米地英人氏はその多数の著書の中で、”ゲーデルの不完全性定理により、全知全能で完璧である神の存在は否定された”と何度も語っています。しかしその不完全性定理とて、この世界の内側の論理に沿って証明された定理に過ぎません。ならばその論理の外側にいる何者かの存在を否定しきることなど、本質的に不可能なはずです。

少なくとも我々は、信じると決めたものを、見ることなしに信じることができる。それはひょっとすると、祈りとも呼べるのかもしれません。

よしわかった、じゃあイエスが死から復活したことを、お前は本当に信じられるんだな?と言われると、いやーそれはちょっと実際、どうですかねー、と言葉を濁さざるを得ないんですけどね。ここが今の私の、信仰の限界というところでしょう。

イエスの教え自体は面白いところや良いところ、謎めいたところがたくさんあって好きです。もちろん納得できないところもあります。そんな話を、もう少し綴る予定です。

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