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絵葉書を送ることへの憧れ

旅に出たい。

知らない土地の空気に触れ、景色を眺め、自分の足で歩く。食べ物はその土地のものが食べられれば最高だけど、適当にスーパーで買った弁当を宿でつつくのもいい。温泉付きの立派な宿もいいけど、ビジネスホテルでロビーで買った缶ビールを飲んでよく乾いたシングルベッドで寝るのも最高だ。

電車での移動もいい。特急で優雅に移動するのも、鈍行で各駅で乗り降りする人を眺めるのもいい。バイクで、車で、自転車で、自由に移動して少し外れた路地で、よくわからないものを見つけられたりしたら最高だ。

私生活、主に仕事が忙しくなればなるほど、憧れの輝きは身と心を焦がしていき、消えることがない。

旅で行われるあらゆる行為が素晴らしいが、最近一番憧れるのは『旅先から絵葉書を送る』ことだ。
どうだろうか、想像できるだろうか。土産物屋の隅や、会計の脇に写真か、水彩画でその土地の風景がハガキに印刷されたアレだ。あれを送る。という行為の贅沢さ。

まず、時間についてだ。絵葉書を買うだけであればサッと購入して懐にいれるだけだが、これを旅先から送る。となると一気に可処分時間の使う量が変わる。ペンを取り、文章を考え、内容を書き、切手を貼り、ポストへ投函する。
手元のスマホで写真をとり、SNSにアップすればものの数分で終わる行為に数十分をかけるわけだ。どうだろう。すごく贅沢じゃないだろうか?
この時間の使い方は少なくとも家族連れの観光旅行では実現しえないし、大人同士でも理解がなければできない。

さらに、だ。絵葉書を送るという行為で最も贅沢なのは、その絵葉書を送る先がある。ということに尽きる。
どんなに素晴らしい絵葉書があったとして、伝えたい気持ちがあったとして、それを送る先がないと絵葉書を送るという行為は成立しないのだ。

Twitterしかり、このnoteしかり。現代は自分の感情や感動を、比較的簡単に発信することができ、わずかばかりにもリアクションがあれば、そこに社会的なつながりを錯覚することができる。社会性の生き物である人間にとって、インターネットの発明は、その欲求を満たしていく進化という意味ではかなり必然的に現れた存在のように思える。

一方、絵葉書は本当の意味での社会的なつながりがないと成立しない。
例えば、家族で旅行に来て一緒に旅をした家族に絵葉書を送るだろうか?自宅で自分が受け取るかもしれないポストに向かって絵葉書を送るだろうか?それはそれで悪くないが、なんだか違う。本質から遠のいている。

俺は、絵葉書を送るという行為ができるということは、旅先の感動を伝えたいと思える同居家族以外の第三者と、社会的に強いつながりを持っている。ということなのだと思う。そして俺はその背景も含めて、『絵葉書を送る』という事にあこがれているのだ。

時間。社会性。そして一番の大前提として旅に出られる経済力。
これらが揃って初めて、絵葉書を送るという行為は成立する。

すごい。憧れる。かなり高尚で、贅沢な行為じゃないか。
絵葉書。どうでしょうか。


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