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大人数の集まりが苦手だった。②

私が大人数が苦手だった理由はもう1つある。

それは私自身の軸がなかったこと。

これは私の強みでもあると思うけど
相手をまるっと受け入れてしまう。
たとえ嘘をつかれていたとしても
発された言葉そのまま受け入れる。

それを私自身の価値観にしがちだった。

だから
「カラスは白」と言う人が居れば
「そっか、カラスは白いのかー」となるし
「カラスは黒」と言う人が居れば
「そっか、カラスは黒いのかー」となる。

で、大人数になると当然
それぞれの価値観があるわけで
価値観がコロコロ変わるというか
揺らぐし、ぐらつくし、混乱する。
私自身の軸がないから。

で、混乱しすぎて疲れる、と。

仕事の会議とかだと
折衷案を出せたりして重宝がられるんだけどね。
参加者の意見を全部丸呑みして
その上で中間地点になりそうな場所を探す。
どっちも選べないなら、中間でいいだろ、という
安易な発想(笑)

だからね、友達との集まりなんかで
「Caramelはどう思う?」
なんて聞かれると最悪。
問題解決のための案ではなく
私自身の意見を求められるから。

で、私自身の意見はないから
「えっと、どっちもいいと思うよ」
みたいになるよねー。

そういうところが相手に「壁がある」と
感じさせてきたんだろうけど
仕方ないじゃんねー。
そうやって生きてきたんだから。

今なら「好き勝手言うなー!」って思えるけど
本当に軸がないとね
壁があってごめんなさい。
私が不甲斐なくてごめんなさい。
みたいになる。

あとは「相手にとっての正解」を探して
喋りがち。

私自身の意見があったとしても
それよりも
相手が何と答えてほしいか
相手が何を求めているか
を軸に喋ってたように思う。

自分の意見を探すのではなく
相手の様子から正解を探そうとするから
それはそれは疲れる。

これは一対一の方が強く出るのだけど
大人数の場合だと
全員に対しての正解みたいなのを考えるというか
全員からの見方を考えちゃうんだよね。
誰に対しても当たり障りのない場所を
探しちゃう。

そんなんだったから、学校とかも
本当にしんどかったよねー。
高校は通信制にして良かったと思う。

おかげで
人との関わり=大変なもの・面倒くさい
という図式が私の中に成立して
世捨て人のように、人と関わらない生き方に
どんどんシフトしていった。

今は、私が安全と感じる場所でなら
自分を出しても大丈夫と感じられている。
少なくとも私が行きたいと望む場所では
「そんなのおかしい」って攻撃されることは
ないから。

どこでも大丈夫にすればいいわけじゃない。
大丈夫な場所を見つける。
それが大事なんだよね。

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