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3.11津波から避難した体験記①

あれから13年経ちました。備忘録的にあの日から数日間に起こったことを書き連ねていましたが、忘れてしまわないうちにNoteに取りまとめて書いておこうと思います。少々長くなりますが(約4000文字)、防災や避難に関して多少なりとも気づきがあるかもしれませんので(悲しい話も殆ど出て来ませんので)、ご興味がありましたらお読みください。

2011年 3月11日 金曜日 午後 2:46
地震発生。会社(東北)の事務所にて被災。同僚の女性も一人いた。横揺れが非常に長く続いた。事務所内の棚の荷物がことごとく落ちてきた為、危険を感じて事務机の下にもぐりこんだ。その後何度か断続的に揺れが続いたため、玄関と裏口を開けて逃げ道を確保した。そういえば2日前にも結構大きな地震があった。
地震によって顧客(車で10分の距離)が被害を受けたのでは?と様子が気になり、訪問して確認したくなった。しかし、しばらくして「津波が発生するので高台に逃げるように」との町内放送?があったため、断念した。
会社の車にて、同僚とともに避難。途中、自宅により、妻、長男(6歳)、娘(2歳)をピックアップした。自宅到着時には、家族は全て家の外に出ていた。幸い子どもが習い事に行く直前だった(もし一人で出掛けていたらと思うと・・・)。近所の人も家の外に出ていた。避難時に妻は紅茶のペットボトル1本(2L)とおかし、娘用の紙おむつ/おしりふきを持ってきた。近所の人には、火の元は消したかお互い確認しあった。それぞれじゃぁねと言って別れた(近所の人とはその後、離れ離れになった(ずいぶん後に生存は確認できた)。私たちは避難場所にどこが適当か悩んだが、近所にある高台は学校しかないと思い、車で裏道を通って中学校まで到達した。
橋を渡って、隣の地区にあるショッピングモールに行けばさらに安全かと考えたが、橋の手前の信号が停電により消えており、また非難する車で橋の前後が大渋滞していたため、引き返して、中学校校庭に車を止めていた。
(のちに、渋滞した道路で、車にいた人は車ごと津波で流されたと聞いた)
車でラジオを聴いていると、「津波到達時刻は3:52、津波の高さは10m以上」と放送されていた。また3:30頃友人から電話があり、「テレビの映像で仙台空港付近が津波により大きな被害が受けている」と連絡があった。
(その後、その友人とは連絡が取れなくなった。1週間か10日経ったのちネットがつなげるようになってから、Facebookで生存していることをメッセージ入れた。更に後で電話すると、ずいぶん心配したんだよーと泣かれた)

3:52
津波到達時間が来ても、まだ避難した中学校には津波は届いていなかった。しかしながら、今更車や徒歩で移動するのは危ないと考え、車でじーっとしていた。まもなく、校庭や体育館にいた中学生が「水が来たー」と叫びながら校舎に駆け上がっていったので、家族・同僚と共に校舎3階に上った。校舎に上がってから30分ぐらいでグランドは水で満たされ、水位は車の屋根がようやく見える程度まできていた。逃げ遅れた車がグラウンドで立ち往生していたが、後ほど何とか車を出て水をかぶりながら校舎まで辿り着いた。
津波が到着してから、まったく携帯電話(会社用AU、個人用docomo)がつながらなくなった。避難した中学校が津波の水により孤立してしまったことから、外部との連絡が取れなくなった。夜、学校に常備していた非常食の乾パンを1人5個与えられた。翌朝の朝食も乾パン5個だった。しかし、水がもらえなったので、のどの渇きを懸念して乾パンを食べない人もたくさんいた。夜は寒さ対策として段ボールや窓から取り外したカーテンを体に巻いて寝たりする人がいたが、暖房がない東北の校舎は寒すぎた。おそらく一睡もできなかった人がいると思われた。何人かの人が寒さと不安で眠れないところ、見上げた空に満天の星が綺麗だったと言っていた。たしか、震災直後は雪が舞っていたが、夜は快晴だった。

3月12日 土曜日、夜明け
朝、空からけたたましい音量が聞こえてきた。見上げると、これまで見たことがないくらいの数のヘリコプターが次から次へと来て、西から東へと向かっていた。何台も通り過ぎるヘリを見て、でも、どうしてここに降りてくれないんだろうと思った。後から気付いたことだが、ここよりももっと大変なところに向かっていたようだった。10時ごろに自分たちが避難していた中学校に自衛隊が到着して、老人や乳幼児を連れた人を優先的に別の避難所へと搬送し始めた。身重の妻も優先的にヘリに乗せてもらえるチャンスではあったが、家族バラバラになる危険性もあったので遠慮した。ほどなく、私たちは自衛隊が用意したゴムボートで、水のないところまで搬送してもらい、そこから徒歩で小学校に行った。途中スーパーで買い出ししたところ、1人5点まで菓子類が購入できた。その小学校は浸水がなく、孤立していなかったため物資の供給が期待されたが、昼過ぎに到着した際には、毛布すらなかった。夕刻、このままでは部屋の中が寒くて眠れないと思い、同僚とともに近くの知り合いのお宅に伺い、毛布を8枚借りた。その知り合いは職場で被災し、一夜を職場で明かした後、水の残る道(5km)を徒歩で帰宅したとのこと。
小学校で最初体育館に集められたが、ほどなくグループ分けされ、私たちが配属された部屋は乳幼児(2歳まで)を持つ家族が優先的に入る部屋だった。毛布はなかったが、飲料水、乳製品、お湯、おむつ、おしりふきなどが充実していた。部屋にランタンも付けてくれ夜中でも真っ暗にはならなかった。8枚借りていた毛布のいくつかを、私たちと同じような乳幼児家族に貸した。(真夜中にずぶ濡れになって来た家族に毛布を貸さない選択は無かった)。電気、水道は使えていなかった。

3月13日 日曜日
小学校には20~30教室があり、その1つずつで班長(部屋長)を選び会議を行うことになった。私は自分の部屋の班長となり、この日の朝の会議で、今後の食料品等の配分方法、部屋のなかの不便なことがないか、部屋での過ごし方(決まり)などについて話し合った。会議は学校の教師がまとめていた。初めてのことなのに気丈にがんばっている様子が伝わってきて、私も出来る限り協力しようという気持ちになった。早速朝食の配分を行ったが、朝は一人いちご5個とバナナ1本だった。そのため更なる食糧が必要と考え、朝から食糧買い出しの為、同僚と共にスーパー2か所に手分けして行った。1つのスーパーでは1000円1袋でカップそばや飲料、お菓子が入っていた。もう1つのスーパーでは1人5個まででお菓子や雑貨(歯ブラシ等)が購入できた。いずれも30分~1時間近くならんだ。自分たちの部屋には赤ちゃんのミルクを作るためのお湯が用意されており、そのお湯を使ってカップスープやカップラーメンを食べた。温かい食事は久しぶりだったので、感動のおいしさだった。

3月14日 月曜日
同僚がsoftbank携帯を使って、歩道橋の上から(そこだけはなぜか電波が届いた。しかもsoftbankだけ)各所に電話連絡をしていた。顧客や本社(東京)に連絡を取っていた。私も同僚の電話を借りて本社(東京)と電話したところ、社員が物資を積んで車で向かっているとのことだった。間もなくして10時ごろ?小学校にその社員2名が2台の車で到着した。物資を届けてくれた。
それらの物資を多少自分たちの乳幼児家族の班の部屋に持って行った。

また、救援物資を顧客に持って行くべく会社の人と二人で車で移動した。通常は車で10分程度のところだが、すぐに車は津波浸水域に到達しそれ以上進めなくなった。そこで、車を置いて線路をひたすら歩いた(電車は絶対来ないという確信はあったし、線路は他の場所より高く浸水が少なかった)。途中小さな橋を渡る時はちょっとしたアドベンチャーだった。また、線路を離れて道路を歩いていくと、大木、自動車、大きな看板が道を塞いでいた。そうして浸水域をなんとか超えて向こう側に渡った時には、信じられない光景を目にした。建物がほとんどない・・・。爆弾でも落ちたんじゃないかと思うほどだった。ほとんどが瓦礫となっていた(その時は気付く余裕もなかったが、その瓦礫の下に多数の命がついえていた)。いずれにしても顧客に支援物資を渡し、何人かの顔見知りの人の生存を確認し、また元いた避難所に戻った。

取り敢えず今回はここまでとさせて頂きます。

良かったこと
・家族全員で避難できたこと。
・飲料と食糧(お菓子)を持っていたこと。
・現金を持っていたこと。
・地震発生初期に外部に(避難場所にいることの)連絡を取っておいたこと。会社には電話。家族にはメールで。(ただ、結局その後津波が来たので、津波後の連絡が取れずにみんなやきもきしていたとのこと)
・避難場所(学校)の候補があらかじめ頭の中にいくつかあったこと。
・被災していない知り合いが近くにいて、毛布を借りられたこと。
・パソコンを持っていて、そこから携帯電話に充電出来たこと。

悪かったこと
・携帯電話が古く、すぐに充電が切れたこと。
・津波が来ないところまで避難できず、車が浸水して使えなくなったこと。 
 (車の有りなしが、後ほど復興にかなり影響した)
・家財道具は全て津波に飲み込まれたこと(奇跡的に新しいランドセルは無傷だった)。
・電灯、ラジオを持っていなかったこと。特にラジオがないため、外部の情報が全く得られなかった。原発があんなことになっていると知らなかった。

そして何を伝えるべきか?
大したことは申し上げられません。
生きていること、当たり前の日々が来ることに感謝しています。
また、その後引っ越しする時に、自分たちの住む場所の海抜だけは気にしています。

まとまりのない文章で申し訳ありません。何年経過しても起こったことが大きすぎて、まとめられないように思います。最後までお読み頂きありがとうございました。

(編集後記)
続編を以下にまとめましたので、よろしければお読みください。


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