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振り返り小説を振り返る

 先週ちょこっと触れた 村上龍『MISSING 失われているもの』について再度。
 同小説をメールマガジンのコンテンツとして受信していた当時は、何らかの事情で後半をあまり読んでいない。そのせいか、今回文庫本で読んでみるとかなり印象が違った。というあたりまでは書いたと思う。まずは、このあたりをも少し詳しく。

 JMM連配(?)中の印象は、著者が(たぶん)好きじゃないと思われるオカルト/スピリチュアル色の強い作品だなあといったもので、たぶんほぼ同じ時期に書かれたと思われる 村上春樹『騎士団長殺し』と併せ、日本の文学/芸の人たちの関心がこのへんに集約されつつあるのを感じていた。
「このへん」とは、端的には、現実/想像、実体験/記憶などの境界。もう少し言うなら、それを故意にイケイケにしている感じ、あるいは更に積極的にレイヤー間の行き来を良しとする感じで。西洋魔術のボキャブラリーで言うなら、「カバラの生命の樹を海図とする航海」や「アエティールの垂直上昇」といった、ある種の《魔術的スキル》を連想させる領域。
 ところが、今回の読書体験では、最早《スキル》ではなく《魔術的現実》そのものとして提示されている感が強く。
 当然ながら、オカルト/スピリチュアルの話法はまったく使われていない。どころか、文体はむしろこれまでの作品以上にリアリスティックだ。やや説明臭い箇所も、若い心療内科医とのやりとりといった微妙な設定でクリアされており。
 自分がボルネオあたりのマングローブ帯でプカプカ浮かんでいた頃の記憶を手繰り寄せる類の物語ではなく、もっと緻密にリアリスティックに行う短いスパンのバックスクロールメディテーション。もしかしたら、自分はそういった類を、不必要に馬鹿にしていたのかも知れず。
 
 蛇足:ネタバレはしたくないので説明はしないが、この小説の「オチが気に入らない」と言う人がいた。私は、これはこれで、この問題を解決していると思う。てか、これしか解決はないのだと思っています。


全体にかかる余談註

 早い話「魔法日記」や「夢日記」など。同小説を読みはじめて、まず連想したのはそういった類の文だった。
 私は、教科書的または参考書的なもの_ヘッダ画像に写っているのもそんな中の一冊_以外、なるべく見ないようにしている。多くの場合、オチがなくキリがなく、仕方ない感じがするからなんやけど。特に、直接面識のある誰かが書いたものの場合、本人から「読んでいいよ」あるいは「読んでください」と言われない限り決して読まない。なぜなら、私はそれらを「究極の個人情報」と理解しているからだ。
 そんな事情で私は、事務的/限定的/抽象的/虚構的のいずれかに該当する文章以外、まず読まない。全体的かつ具体的なんて、何と言うか、滅茶滅茶ヤバイ気がしてしまうんですよ。

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