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文法以前(1)「お前ホンマにそんなこと思てんのか?」

【2022.7.2追記】コピーライターとしての最初の師匠と言うべき人が三人いるんですが、その中の一人から言われたヒトコトが、当時自分の中で着々進行中だった「そこに在るものを見ない→ないことになる」という過程を、ものの見事にブチ壊した話です。


 ニホンゴまわりの話には違いないんですが、「文法以前」の話を、気が向いたら少しずつしていこうと思う。これまで書かなかったのは、まるで具体性がなさ過ぎてイラっとする、いわゆる精神論みたいなのが嫌だったからですが。
 何で急に書く気になったのかというと、いつごろからか頻繁に目にし耳にするようになった「日本語はもう駄目だ」について、私は「日本語によってなされる多くの言説が誰にも届かず機能してない」という現象を正確に捉えているとは思えず。じゃあ何が駄目なのかというと技術論以前、文法以前の話にならざるを得ないと感じたからです。もしかすると、多くの日本語話者が(「法的処理」を除いて)言葉を駆使した「現実的な落としどころ探し」の地味な努力を継続していく根気を失いつつあるんじゃないか。などと、杞憂であってほしい面白くない想像なんかもしてしまう。
 幸いというか、昨今「論破」することの不毛さ虚しさに関する「言説」というのか、「そんなんもういらん」という声が増えている。のかどうか、少なくとも私には、よく聴こえている。
 そんなこんなで、とにかく始めてみます。

 広告制作会社勤務のコピーライターになって間もない頃、三人の師匠の一人から、
「お前ホンマにそんなこと思てんのか?」
と言われ。私は、それを、他人事みたいな言い方になるが、とても新鮮に感じた。広告コピーというのは「自分が思っていること」を書くものじゃないと思っていたからだ。この人は何を言っているのか? 私は、このことについて、その後も長く考え続けることになりました。
 広告というのは、企業等のマーケティング戦略の一部に位置づけられるもので、その中で、主として言葉がらみの何やかんやを職務として割り当てられているのがコピーライターであり、自分の思っていることを書く職業ではない……みたいな教科書的な理解に従って、自分が思ってもいないことをしゃあしゃあと言ってのけるのが「クール」な態度である。とすら、どこかで思っていたのかも知れない。
 ところが、自分が好きなコピーをいろいろと読み返してみると、得てしてそれを書いた「私」の声が混じっていることを、どうしても認めざるを得なかった。
 コピーライティングはディベートじゃないから、
「こうこうこういう理由で、あなたはこの商品を買うべきである」
と、相手を「論破」することを目的とはしていない。たぶんここらへんが、自分の言語観を形成する上で大きな事件だったような気がしている。
 資本主義はもう限界だ。マラドーナじゃないんだから市場の「神の手」なんてない。マーケティング的に非の打ちどころのない「政治家」のスピーチが「有権者」に届かないのはなぜか。いや、そもそも「政治家」でしかなく「有権者」でしかない状態を続けている限り……。それはそうかも知れないけど、大丈夫。言葉は、いつだってはみ出すことができる。
 
 今後も、気が向いたときに、「イラっとする精神論」でも「セコく虚しい技術論」でもないものを書いていくつもりです。
(3rd Holy Dayに) 

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