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共通体験とコトバのやりとり。

ユル言語学ノート。ユルゲンテラーのCaptain_Tです。

「記号接地問題」とか言って語りはじめるとアレなんやけど。
ある同じ体験を共有する者同士の《言葉を超えた》コミュニケーションというのがある。相当昔から、たぶん太古からあった。筈やとは思うけど、人間の交際または交流が良くも悪くも地縁血縁の範囲におさまらなくなると、そういう《言葉を超えた》つながりを作ることは徐々に困難になっていく。
ある種のグループが、《秘密の儀礼》即ち《人工的≒演劇的共通体験コンテンツ》を団の中核に保持することで克服しようとしたのは《それ》であり、そういったグループが現れたのと、都市の誕生がタイミング的に同じと考えられているのも大いに頷けるところ。

ところで、共通体験をベースにしない(言葉という「記号」が現実世界に「接地」しない)コミュニケーションは無価値なのか?
私は、そうは思はない。なぜなら、世のコモンセンスは全てとまでは言えないが、ほぼ、そういうものだからだ。むしろその部分の脆弱性にパッチを当てるような仕事の必要性は高まっていく一方のように感じている。
例えば、「戦争はいけない」という言葉は、必ずしも話者の実体験から出たものではないかも知れない。だから、その言葉は無価値なんか? 体験していない者は黙っているべきなんか? ということです。
共通体験ベースのつながりに執着する人たちの多くに見られる排他性は、当人たちが自覚しない限りどうにもならないものだと、そこは悲観的に思っている(自分は、実は割とネガティブな人間です)。

いきなり脱線気味ではありますが、何が言いたかったんかな。現実レイヤーに接地しない記号としての言葉こそが、言葉らしい言葉である。と、私は
《テレビで見たホームランよりスタジアムで見逃したホームランの方がリアル》という世界があるのを認め、かつ大切にしつつ、そう思っている。
この認識のある/ないで、生成AIとの付き合い方も変わってくるんだろう。


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