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語る権利と語るべき義務について

「美味しい馬刺し食べたよ」
「いいなあ/自慢かよ/ンなこと言われても/ごめんなさいアタシお肉食べないから/馬術部の同窓会で言うことじゃないだろ/ほお/どちら産の/貴兄はどの部位がお好みかな」
……今作った会話文。実際に交わされたものではありません。
 何でそういうシミュレーション的なことを即興的にやったかというと、先日大変貴重な取材の機会に恵まれたのを機に、改めて表題のようなことを考えていたからであり。今日は、自分としては珍しく真面目に書いてみます。書けるんかな? 自信ないけど以下に。 

 日本的美意識もしくは価値観として、「知らぬのなら(経験がないのなら)黙っておれ」というのがある。と思う。ウィトゲンシュタインの話をしている訳ではないので、連想してしまった方は切り離してお読みいただければ幸いです。
 自分が経験または実践し直接関わったこと即ち一次情報/経験はないが見ていたまたは非常に興味があったこと/特に思い入れはないが広く流通している情報を何となく見聞きしたこと(冷笑の対象にできること)。と、とりあえず大雑把に3区分した上で。

1)「自分が経験または実践し直接関わったこと即ち一次情報」について:
 特定分野の学究やスポーツ競技や武道などそれなりの修練やトレーニングを要求される特定分野の実践者、不幸にして甚大な自然災害に遭われた被災者やそれを近いところで見ていたetc.バクっと「当事者」視点に立つと、
「やった(経験した)者しかわかるまい」
という臆断は、多くの場合、まあだいたいは正しいと思います。経験していない人とのコミュニケーションを拒むのも、まあ、その人の権利として認められるとは思います。が、余裕があれば、その道を実践していない者どもにも、やさしく接していただければ幸いです。
 更に言うなら、
「経験してない者は黙っておれ」的態度は、どうなんか。心的にも大きな傷を負っているであろう被災者含め思うのですが、その態度はいただけない。てか、これは受け入れられない。私にも、東日本大震災の被災者から、
「何も言わず、黙って被災者の声に耳を傾けよ」
的なことを言われかなり愕然とした経験がある。ショックから立ち直れない被災直後ならまだしも、一定期間を経てそういうことを言ってしまえるメンタリティその他事情に痛み入りつつ、これらの捻じれた(オタク的?)ワガママを許容してあげようという判断は「やさしさ」ではないということ、改めて明言しておきたい。

2)「経験はないが見ていたまたは非常に興味があったこと」について:
 経験がないが故にわかっていない_誤解している、理解が浅い_etc.いろいろあるだろう。が、少なくとも「興味を抱いている」部外者にどう接するか。この作法は大げさかも知らんけど接し方が、日本社会特有の「排他性」や「同調圧力」を、徐々にキャンセルしていく上でのキーであることは間違いないと思う。

3)「特に思い入れはないが広く流通している情報を何となく見聞きしたこと」について:
「フラットに見る」とはどういうことか書こうとしたが、ぶっちゃけそういう問題ではなく。各自、自らの裡に存在する東アジア的イケズメンタリティの処理を、そろそろ真面目に(切羽詰まって)考えて良い頃なんやないか。

余談:
 それ書いたらアカンでしょう。ヤバイでしょう。てなファクトや個人の経験を言語化して伝える(もってまわった言い方すみません。即ち「語る」ということです)やり方について、暫定ではあるが答えを出そうとしています。

以上、泥粋禅師モードにて。


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