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死とは何か『霊訓 第一回(※長文注意)』

 ーー本書を絶対無限の存在とその子供たちに捧げる

 はじめに

 ※本書は本文中に「キリスト」「真理」「神」等の表現が出てきますが、著者自身は特定の既存宗教を信仰するものではなく、また一切の新興宗教団体とも関わりのないことを予めお伝えしておきます。本書は読者を特定の宗教に誘導するような意図は一切ありません。
 また、本書に記されている内容は著者が信頼に足ると信じる文献等からの情報と、著書自身の経験を通じて間違いがないと確信した事柄から構成されています。しかしながら本書に記されている事柄のみを真理と断定するものではありません。

 この本を手にとられたあなたへ。
 あなたはひとりぼっちで生きているのではありません。どんなに辛く苦しい時でも、あなたを導いている存在がいます。
 あなたの成長をなによりも望んでいるその人は、ありとあらゆる方法であなたにサインを送っています。例えば何気ない誰かの言葉を通して。ふとした瞬間、視界に飛び込んできた本のタイトルを通して。朝目を覚ました時、あぶくのように浮かび上がってくる閃きを通して。
 守護霊という言葉を聞いたことがあると思いますが、人にはひとりひとり、この守護霊が付き添い成長を促しています。そして、そのほかにもあなたを支えてくれる多くの存在が、あなたを取り巻いています。
 守護霊というその字面だけを見ると、あなたを災厄や苦難から守ってくれる存在のように受け取ってしまうかもしれませんが、そうではありません。
 なぜなら、守護霊をはじめとするあなたの見えないガイドたちは、あなたが本当は誰であるかを気づかせる為に傍にいるのです。
 あなたが誰で、本当は何を成すべきかを、彼らは教えようとしているのです。
 この本を通して、あなたがただ生きて、死んでいくだけの虚しい存在ではないということをお伝えできればと思います。
 そして、すべての苦しみには意味があり、人間は幸福に向かって永遠に生き続けるのだということを理解していただく事ができれば本望です。その時あなたの目から涙が拭い去られ、あなたをこれまで包んでいた愛の正体に気がつきますように。
 祈りをこめて。    

第一部 基礎知識編


 本書は第一部と第二部の二部構成になっています。
 第一部は基礎知識編で、イエス・キリストやダスカロスをはじめとする真理の先駆者たちの教えを紹介します。これらの知識を理解することによって、自分自身をコントロールするための土台を作ります。
 第二部は応用編です。第一部で紹介した知識を実際の生活の中で応用する方法を、一緒に考えていきましょう。恐怖や不安の正体を見つめ、それらが心身に引き起こす不調を取り除き、健やかで心穏やかに生きていくための知恵を実践することが目的です。
 第一部は勉強が中心になるので、難しく感じる部分があるかもしれませんが、できるだけ分かりやすくお伝えできるように努めます。真理は一度読んだだけではなかなか染み込んでくるようなものではありませんが、繰り返し勉強することで少しずつ理解が深まっていくので、どうか諦めずに学んで下さい。理解が深まれば、あなたの人生において、きっと素晴らしい変化が現れる筈です。
 それでは、真理の探求を始めましょう。

第一章 私を信じるものはたとえ死んでも生きる

私は時間(カーラ)。すべてを破壊するもの。私は世界を滅ぼすためにやってきた。――バガヴァッド・ギーターの一節

『永遠の生命~死を超えて未知の国へ~』エクナット・イーシュワラン著 スタイナー紀美子訳 東方出版刊より引用


 多くの人が死を恐れています。
 滝壺に向かって流れていく川の流れに、ただ浮かぶだけの小さな笹舟のように死に対しては誰もが無力です。その流れに逆らえるものは誰ひとり存在しません。
 不老長寿を願い、人は様々な抵抗を試みましたが功を奏した試しはありません。
 ですが、私を信じるものは死んでも生きる、と言った人がいます。
 ――私は道であり、真理であり、生命である。
 2000年前のパレスチナで、イエス・キリストは私たちに道を示しに来てくれました。
 さて、ここで疑問が生まれてきます。
 そう言うのなら、なぜキリスト教徒で死なない人はいないのですか? 心の底から信仰に命を捧げて、他者のために尽くした偉人がたくさんいるというのに、あの人たちの誰一人として死を免れなかった者がいないのはなぜですか? 
 ギリシアの有名な哲学者、プラトンの唱えた説にイデア論があります。
 この世で目に見えるものはすべて、イデアの投影された影にすぎない。イデアとは私たちが見ているものの原型である。
 例えば目の前にりんごがある。私たちが見ているものはりんごのイデアの投影された影を見ているのである。
 それは私たち人間にとっても同じことなのだと言ったら、果たしてあなたは信じるでしょうか?
 実在は肉眼に見えない世界にあって、この世界で生きている私たちはただの影法師なのだということを。

 1848年、ニューヨーク州ハイズビルで始まった霊界との交信は後にスピリチュアリズムと呼ばれる一大運動へと発展しました。
 ラップと呼ばれる現象(アルファベットを順に読み上げて、音が鳴った箇所の文字を繋ぎ合わせると意味のある文字列になる)によって姿の見えない霊との意思の疎通が可能になり、その事が大きな話題となって衆目を集めました。
 この事件をきっかけとして、霊界との交流が大々的に行われるようになりました。メディアがそれらの現象を取りあげ、一大ムーブメントが起きたのです。
 起きた現象はラップだけではありません。椅子やテーブルが宙に浮かぶ。アコーディオンが勝手に音楽を奏でる。誰も手を触れていないメガホンが縦横無尽に飛び回り、あまつさえそのメガホンから声が出る。何もないところに物体が現れ、消える。人体の空中浮揚、等々。
 すると、今度はその現象に対する否定的な意見も現れます。
 高名な科学者や、フーディーニのような奇術師の徹底的な追求を受けて、偽物の霊媒師のトリックが暴かれることがありました。
 詐術が明らかになると、メディアは喝采をあげました。その当時の時代背景として、自然科学が発展した世の中で心霊現象を認めることは悪であり、時代に逆行するものであるというような風潮があり、またローマカトリック教会において心霊現象は悪魔の仕業と決めつけられていたのです。
 したがって、心霊現象を起こすための媒体となる霊媒に対する世間の反応は決して暖かいものではありませんでした。さらに言えば、そんな世相の中で心霊現象を認めた科学者に対する世間の眼差しは推して知るべしといったところでしょう。
 ですが、決して少数ではない科学者たちがこれらの現象を観察し、冷静な判断によって真実の太鼓判を捺しました。その代表的な人物がサー・ウィリアム・クルックス博士です。タリウム元素を発見し、クルックス管を発明。英国王立協会会長、英国学術研究協会会長、等々。第一次大戦中は、政府の物理学最高顧問の一人に選任されたと言いますから、まず間違いなく当時の英国においての科学の第一人者と言えます。
 博士は当時最高の物理霊媒であったD・D・ホームやケイト・フォックス、フローレンス・クックの霊媒現象を研究し、その真実性を科学的に証明しました。
 特筆すべきはフローレンス・クックが霊媒となって出現したケイティ・キング霊との実験です。
 この実験で起きた霊媒現象は物質化と呼ばれるもので、霊媒の体内からエクトプラズムという半物質(希薄な物質で、採取して分析したところ成分は唾液に近かったと言われています)を取り出して人間の肉体を作り、霊がその身体を使って会話を交わし、触れ、一緒に踊ることさえできたそうです。
 この実験における最大の争点は、クックとキング霊が実は同一人物なのではないかということでした。なぜなら、クックとキング霊の容貌が似ていると言われたからです。
 そしてもうひとつの理由は、霊媒現象中のクックはキャビネットと呼ばれる暗室に閉じ籠る必要がありました。
 霊媒から取り出されたエクトプラズムは強い光の下では形態を保つことができないために霊媒自身も光に当たらぬように隔離されました。どうしても薄暗い室内でしか現象が確認できなかったことからトリックを疑われたのです。これらの理由によって、人々はこの現象を霊媒の一人芝居であると決めつけました。
 最初のうち、物質化はぎこちないものでした。カーテンで仕切ったキャビネットから顔だけを出すというものから始まり、その表情も精彩を欠いた人形のようでした。物質化がまだ完全ではなく、身体の一部分だけしかないような状態でした。
 しかし回数を重ねるうちに徐々に霊界側でも技術が向上し、やがてはキャビネットのカーテンをくぐり抜けて、完全な姿で現れることができるようになりました。
 この現象がトリックではないことを証明するために、実験前に室内は徹底的に捜索され、霊媒が着用する服も実験用に用意されたものを着て、霊媒は手足を縄で緊縛された状態に置かれました。クルックス博士の場合さらに念が入っていて、実験自体を博士の自宅で行い、使用する道具もごく小さなものに至るまで博士自身が用意しました。
 興味深いのは、時としてこの現象を司る守護霊によって霊媒を縛る現象が見られたことで、このように地上と霊界の双方から協力しあって実験は行われました。
 クルックス博士とキング霊は実験を重ねるうちに強い信頼関係で結ばれ、その度合いが増すごとに霊媒現象も強い力が働くようになりました。そしてとうとう、クックとキング霊が全くの別人であることの決定的な証拠が得られたのです。
 燐を油に混ぜたランプを用いることでキング霊の物質化を維持したまま暗室の中を照らすことに成功し、博士はキング霊と霊媒クックとが同時に存在していることを確認しました。以下はその様子の抜粋です。

——わたしは用心深く部屋へ入り、暗いのでクック嬢を手さぐりで探し回った。そこで彼女が床にうずくまっているのを見つけた。わたしはひざをつき、ランプに空気を入れ、その光で若い婦人がその晩のはじめごろ着ていたのと同じ黒いビロードのドレスでおり、どう見ても完全に意識を失っているのを認めた。彼女はわたくしが手をとり、ランプを顔のすぐそばへもって行っても動かず、ただしずかに呼吸を続けているだけだった。ランプを持ち上げて見回すと、“ケティ”がクック嬢のすぐ後ろに立っているのが見えた。彼女は会で前に見たときと同じ、なだらかな白い掛け布をまとっていた。クック嬢の手の一方を、わたしの手で押え、なおひざをついて、“ケティ”の姿全体を照らすようランプを上下に動かし、数分前に自分の腕に抱きしめたまぎれもない〃ケティ〟を実際に見、狂った脳の幻影でないことに十分に満足した。彼女は物をいわず、しかし頭を動かし、自分を認めて微笑していた。自分の前にうずくまっているクック嬢を三回にわたって調べ、わたしの押えている手は生きた女のものだと確信できたし、また、三回に分けてランプを“ケティ”に向けて彼女の客観的現実について何の疑いもなくなるまで、着実な精査で調べた。最後にクック嬢はわずかに動き、“ケティ"はすぐにわたしに立ち去るよう身ぶりで合図した。わたしはキャビネットから別の部屋へ行き、“ケティ"を見るのをやめたが、クック嬢の目がさめるまで部屋にとどまった。そして訪問者の二人があかりをもって入ってきた。——

『心霊科学の世界的古典 心霊現象の研究』ウイリアム・クルックス卿著 森島三郎訳 たま出版刊より引用


 このことによって、霊と霊媒が別人であることが客観的視点から決定的に証明されたのです。それがひいてはケイティ・キングという霊の存在に対する確固たる証拠にもなりました。
 それ以降もさらに現象は続き、キング霊の姿を写真に納めることにも成功しました。クルックス博士とキング霊が並んで立っている有名な写真があります。もしかしたら皆さんも一度はどこかでご覧になっているかもしれません。その写真を見ただけではまさか心霊写真と思う人はいないであろうと思われるほど、ケイティ・キングの存在感は完璧なものでした。
 これまでに紹介した現象は物理的霊媒現象と呼ばれ、死後の世界の存在を証明することを眼目として演出された現象を言います。
 それに対して精神的霊媒現象と呼ばれるものは、私たち地上に生きている人間がどのように生きれば良いのか、死んだあとの世界はどうなっているのかを教えるために霊媒の身体を使用して文字を書いたり、話すことで伝えられたものです。
 霊界側としては、これらのメッセージを伝えることこそが本来の目的なのです。物理的な心霊現象が現在ではほとんど起きなくなったこと自体が、その現象が果たす役割の終わりを告げているのでしょう。つまり、死後の世界の存在に関しては、すでに十分な証拠が提供されたということです。
 キリストが言ったように肉体を失っても私たちは永遠に生きるのです。
 死とは、ただの変化に過ぎないのです。サナギが蝶になるように、樹木が実をつけるように、星々が生まれては燃え尽きるように、物質はこの宇宙の中で全体として一定の質量を保ちながら生成流転を繰り返しています。同じく物質である肉体も、その例外ではありません。永遠に変わらないのは、私たちの本質にあたる、物質ではない部分なのです。
 その事を、彼らは伝えに来ました。死を恐れる必要はないことを。私たちの行く先には、地上とは比べ物にならないほど美しく喜びに満ちた世界が待っていることを。


 ここで、聖書を御存じない方のためにイエス・キリストの生涯について簡単にご紹介します。
 イエス・キリストは神ご自身の純粋な表現として、この物質の世界に誕生しました。
 当時のユダヤは事実上ローマ帝国の支配下にありました。彼らはこれまでに現れた預言者が遺した言葉の通り、彼らを解放するメシア(救世主)を待ち望んでいたのです。一部の占星術者達は星の動きからキリストの誕生をすでに察知していました。
 ですが、ユダヤを支配していたヘロデ大王がイエスの誕生を知るやいなや、生誕地であるベツレヘムにいた2歳以下の男の子を全て殺すように命じたのです。イエスはこの世にもおぞましい大虐殺を逃れて家族共々エジプトへ向かいました。そしてエッセネと呼ばれる人々と共に暮らし成長します。
 やがて時が経ち、ヘロデ大王は死去します。イエスは11歳の時生まれ故郷のナザレに帰り、30歳になって各地で伝道を始めます。
 それまで人々が信じていた神は、生け贄を求め、復讐し、言うことを聞かない民を滅ぼす神でした。
 イエスが説いた神は愛の神です。互いに愛しあうことの大切さを教え、罪深き人々を赦し、道に迷った最後のひとりまでも愛情深く見守り、見つけ出してくれる神です。
 その伝道の道のりにおいてイエスは様々な奇跡と呼ばれる現象を起こしました。病の人を癒し、悪霊にとりつかれた人を解放し、死んだ人をも生き返らせました。湖の上を歩き、僅かなパンと魚を増やして何千人もの人々が満たされるまで分け与えました。
 やがてイエスは預言書に記された通り、エルサレムへやって来ます。そこでファリサイ派とサドカイ派と呼ばれる人々の偽善を痛烈に批判しました。彼らは神に仕えると言いながら単なる形式主義に陥っていたのです。
 多くの民衆はイエスを歓迎しました。その奇跡的な癒しの力と、爽やかな弁舌に魅了されたのです。そしてユダヤの最高法院(裁判所)はイエスの影響力が増すにつれて、彼を妬み、恐れました。
 最高法院の大祭司カイアファが中心となり、イエスを捕らえてローマ総督ポンティオ・ピラトの前へ突き出しました。人心を惑わし、自らをユダヤの王だと言い、神を侮辱したという罪をでっち上げて死刑を求刑したのです。
 ピラトは一度はイエスの処刑を断りました。イエスのどこにも罪を見いだせなかったからです。ユダヤ人の事はユダヤ人同士で決めるようにと、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子)の元へと送りましたが、程なくイエスはヘロデ・アンティパスからの死刑の求刑と共にピラトの所へ送り返されました。
 ピラトは葛藤しました。民衆はイエスを神の子だと言う。彼を処刑する理由は見つかりません。彼の妻もイエスの処刑には反対をしました。かといってユダヤの最高法院を無視すれば、ローマ皇帝に対しての忠誠心を疑われる事になり、あることないことを讒言されるでしょう。そうなると今度は自分自身の立場が危うくなります。答えに窮した彼は妙案を思いつきます。イエスの処遇はユダヤの民衆に決めさせることにしたのです。
 かくしてイエスは最高法院が煽動した無知な民衆の手によって、ゴルゴダの丘へと送られたのです。彼らは、自分が何をしているのかさえ、理解していませんでした。
 鞭打たれた身体で十字架を背負い、ゴルゴダの丘でイエスは磔刑に処されました。
 イエスの遺体はローマ市民権を持つアリマタヤのヨセフが引き取り、墓に納められました。
 そしてそれから3日後、墓を訪れた母マリアとマグダラのマリアはイエスの墓を塞いでいた岩が転がされているのを見つけます。そしてその岩の上に立っていた天使からイエスの復活を知らされます。すぐに他の弟子の元へと戻ってこのことを報せようと駆け出したとき、彼女たちに声をかける人がいました。それはイエスその人だったのです。
 これが最大の奇跡と言われるキリストの復活です。それからイエスは他の弟子達の前にも姿を現し彼らと50日を共にしてから、天へ昇りました。

 ケイティ・キングの話を思い出しましょう。人は一度肉体を失っても霊は失われることなく、物質化によって生前そのままに地上に姿を現すことができます。このイエスの復活も、同じ工程を経て行われました。
 私を信じるものはたとえ死んでも生きるという言葉は、真実なのです。
 さて、人は死んだ後どのような道程を辿るのでしょうか。
 一般的に死と呼ばれるベールをくぐり抜けたあとの体験は、人によって異なります。キリストは、私の父の家には多くの部屋があると言いました。この言葉の意味は、死後の世界には無数の意識状態があるという意味です。
 生前に持っていた習慣、思想、知識によって、死後置かれる状況が変わります。なぜなら、私たちがこの地上を去った後の世界は想念の世界だからです。私たちが思い描いた通りのことが実体となって現れます。
 例えばコーヒーが飲みたいと思えば、それが目の前に現れます。会いたい人がいれば、その人を強く念じるだけで会うことができます(ただし、お互いの心境が違えば心境の高い方が低い方へ出向くことになり、逆は出来ません。また、相手が拒否すれば面会は叶いません。さらに、死後お互いに会うことが良くない結果をもたらすであろうとガイドによって判断された場合も面会はできません)。
 心境とは、心の浄化程度のことを言います。死後、地上に残してきた人や物、経験等に縛られると浄化が遅れ、執着が強すぎると心境がさらに下降してしまいます。心境がさがると苦しみや倦怠感に苛まれますが、やがていつかはその状況に飽き飽きして向上を志すようになります。
 死の直後の状況も人によって異なります。自分が死んだことをすぐに理解する人もいますし、死んだことに気付かず生前と同じような生活を続ける人もいます。しかし、やがては何かがおかしいことに気付いて状況を理解するようになります。
 霊側からの通信によれば、実は一番困るのが、生前に強い固定観念を持っていた場合なのだそうです。例えば、心の底から人は死ねば消滅してしまい何も残らないと信じていたとすると、非常に長い間意識が目覚めず眠ったような状態に置かれることになります。
 また、宗教等で誤った死生観を植え付けられたために成長が停滞してしまうことも多いのです。なぜならそこは、自分が生前に実在すると強く信じて思い描いた世界だからです。延々と、教え込まれた死後の世界のイメージの中に留まって、なかなかその状況から抜け出せないのだそうです。
 人には創造する力が備わっています。これは何も、死んだ後だけの話ではありません。私たちはいま地上で生きている、この瞬間にも創造を行っているのです。
 人の思考と願望は全て形体を持ち、自分が死後に住む環境と自分自身を造りあげています。
 ですので、今現在において身辺に地獄のような状況を作り出している人は、死後赴く世界も地獄のような場所に落ち着くことになってしまいます。向こうの世界は自分と同程度の心境の持ち主同士が引かれあい共に暮らす世界ですので、もしも自分の心が憎悪で満たされていれば、一緒にいる相手の心にも憎悪が巣食っているという訳です。お互いに憎みあい、罵りあっていつ果てるともない争いを続ける状況こそ、まさに地獄と呼ぶべきではないでしょうか。
 これらのことから、地上にいる間に死後の世界の正しい知識を得ることは、とても大切なことなのです。生きている間に備えが整えば、向こうへ行ってからもまごつくことなく自分の携わるべき仕事に就くことができます。そこでは誰もが自分の本来持っている才能を発揮して、喜びに満ちて使命に邁進することになります。
 さて、自分の死を自覚する段になると、霊界から私たちを迎えにくる人が現れます。霊界の機構は組織的で、私たちひとりひとりに必ず案内者がつけられます。
 彼、もしくは彼女はあなたが生前親しかった人かもしれません。それとも会ったことはなくても直感的に親近感を覚える人であるかもしれません。いずれにしても、私たちを案内してくれる役割を担った人が導いてくれることになります。
 ガイドの案内に従って、私たちは新しい生活を始めます。ほとんどの人は自分が地上に生きていた時と似たような環境から暮らし始めることになります。急激に環境が変わることでショックを受けないようにとの配慮がなされるのだそうです。そして徐々に地上的なしがらみから解き放たれて行きます。
 向こうの世界では肉体を持たないため、食べ物を得るために労働する必要はありません。皆、それぞれに自分のやりたい事を楽しんでやることになります。着るものも汚れないので洗濯する必要もありません。
 そして肉体的苦痛は取り除かれますから病に苦しむこともありません。肉体の制約から解き放たれて身体は非常に軽快で、理解力と表現力が増し、エネルギーに満ち溢れるようになります。そして時間も私たちが認識するようなリズムでは存在しません。
 時間は絶対の基準ではなく個別的なものであることを、アインシュタインはユーモラスに表現しました。要約するとこういうことです。
 あなたが非常な苦痛を感じている時に過ぎる時間のなんと遅いことか。また、心から楽しんでいる時間のなんと過ぎ去るのが早いことか。
 時間とは相対的なものである、これはすでに地上においても証明されている事実です。東京スカイツリーの上で計測した時間と地上で計測した時間は同じようには流れなかったのです。時間は重力と速度の条件によって流れかたが変わります。
 地球が太陽の周囲の軌道を一周する間に、365回地軸を中心に回転することによって朝と夜が交互に訪れます。そしてその一回転を24で割って1時間としています。では、もしも太陽が無くなったらどうなるかを想像してみてください。
 本来、私たちの経験と地球の回転との間にはなんら繋がりはないのです。そして霊界には太陽もありませんし昼夜の区別も存在しません。
 時間という概念を取り払ってしまえば、全ては「起きたこと」になります。そこには「起きた順番」が存在するだけです。
 前述の通り移動も思い描けば瞬間的に行われます。空間というものも、私たちが場所として認識しているものとは随分異なったものであることに気がつくようになります。
 霊界において想念の伝達は電光石火の勢いで行われます。実は、私たちが故人に向ける思いも瞬間的に届いています。逆に霊界から向けられた想念に私たちは気付いていません。ですから、他界した人に向けた祈りや善意は決して無駄になることはありません。
 このようにして、私たちは肉体という名の小さな笹舟を岸辺に置いて、死という名の霧を抜けた先にある新しい大陸での生活に足を踏み出すのです。

           第二回に続く


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