愛が目に見えた日

「目に見えない大切な物は」と問われると、「愛」と答える人は一定数いると思います。
人が人を、またはその他の物を大切に、慈しみ想う心であります。
目には見えない、いわゆる視認することができないもの。深く考えたことはないけれど、愛とはそういうものとして認識しています。

ですが先日、ふとした時にその考え、認識をひっくり返されたことがありました。

息子も食べる夕飯を作っていた時でした。
最近の息子は、食べムラが多くなり、野菜はもれなく口から出し、緑色のものはそもそも口にもいれず、口に入ったかと思えば舌で選別し、口から押し出す物を探すような食べ方をするようになりました。
(離乳食時はよく食べた息子ですが、これも成長だと、気を長くもつようにしております。)
日々、野菜の誤魔化し方、味付けの工夫をし知恵比べのような毎日です。

その日もピーマンを細かく細かく微塵切りにしている時でありました。これなら気づかれないだろうと、知らずに息子の身体に入っていき、知らずに息子の栄養として吸収されるピーマンを想像しながら鍋に投入しようとしたとき、ふと、これが愛というものなのではないのか、と考えました。
息子の身体を慮り、少しでも栄養を摂らせるために小さくなったピーマンたち。
このピーマン、愛じゃん。と浅はかながら。
あの時、確かにピーマンはわたしから息子への愛でありました。

息子が、わたしの下心も知らずにパクパク無邪気に食べる隠れたピーマンを見て、あ、わたしの愛が入っていくと思いました。
シメシメと思うと同時に、頭の片隅に、わたしの身体も母の愛でできているのだと実感するのでした。

行動で示す愛、言葉で伝える愛、そしてごく稀にピーマンの様に目で見ることのできる愛にこれからも出会い、気づいたり、気づかなかったり、ふと思い出したりする

たくさんの転がっている愛により多く息子が気づけますように。
その愛を素直に受け止めることができますように。
自分に向けられた愛を強みに代えられますように。
愛をあげることができますように。

今日もわたしの愛を微塵切りにしながら、そう想うのでした。

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