しきから聞いた話 188 洗われる業
「洗われる業」
標高1,000メートルほどの山の麓に、清い水をたたえた池のある、古い寺があった。
境内の奥はそのまま山へとつながっており、斜面に整備された50段ほどの石段を上がると、いくつかの小祠が祀られている。その左手に、小さな滝が連続する清流があり、これは下の池を避けるようにしてさらに左へ流れ、境内の南西の端で暗渠となって消えていた。
数日前に受けた相談で、少々厄介なものを引き受けてきた。手元に置いてよいものではないので、ここへ頼りに来た。
境内の池は清いものを好む。よろしくない諸々を引き受けて下さるのは、暗渠へと続く流れだ。
まずは拝殿に参る。
そう。ここは寺なのだが、古い神が祀られている。
泰山府君と言われているが、本当のところは知らない。いや、本当などというものはないのだろう。しかしながら、本堂に祀られるのが地蔵菩薩だということには、大事な意味がある。地蔵さまは、地の蔵のほとけ。日々六道を歩み、地獄にまで赴かれる。
慈悲の菩薩、二仏中間の導師でいらっしゃる。
拝殿の次に、本堂へ参る。中へは上がらず、外から。
訪れた経緯をお伝えし、宜しくご差配いただけるように、拝む。
こちらの地蔵さまは、優しくも厳しい。
有難い。
本堂へ参り、よほどの拒絶やお叱りがないかぎり、その後にやることは簡単だ。境内の奥へと進み、斜面の左側へ回り込み、清流へと下りてゆく。が。
下り口に、作務衣の老人が立っていた。
「あぁ」
こちらの顔を見ると、小さくうなずいて、道をあけてくれる。
「ご苦労さん」
日に焼けた、いかつい頬がゆるんだ。
円真さん。
先代住職を頼ってどこからか来た人で、もう何十年もここで、寺男のようなことをしている。円真、というのは法名であろうから、正式に得度はしているのだろう。しかし、僧侶らしきこと、たとえば経を読むなどをしている姿は、見たことがない。何か理由があるのだろう。以前はしばしば、血の臭いのする人だなと思っていたが、近頃それは感じなくなった。詮索する気持ちが無くなったからかもしれない。
清流の水辺に下りて、しゃがむ。
そして、拝む。
この流れの源には、奥に続く山の上の山岳寺院がある。観光地としてもつとに有名であり、参拝者が多い。今しゃがんでいるこの水辺の寺は、山上の寺院の支院なのだ。
「今日も、色んなもンが流れて来ンだろ」
目を上げると、円真さんが立っていた。
円真さんから話しかけてくるとは、珍しい。そう思ったことが顔に出たのだろう、円真さんは鼻先をふぃっとこすり、照れたような顔になった。
「あんた今日、流しに来たもンがさ、なんか、ね」
冷たい針金がついと胸に刺さるように、円真さんの想いが伝わる。
これは、昔の円真さんがよく触れ、よく知っていたもの。
「これ」
円真さんの手に、一把の線香が煙を上げていた。
「いいかな」
もちろんだよ。
ありがとう。
水辺の乾いたところを選んで小石を集め、線香の束を立てる。そうしながら円真さんは、小さな声で何やらぶつぶつとつぶやいている。聞き耳を立てると、それは光明真言だった。
先代住職の面影がよぎる。
そのとき
「こんなもん、預かってくるんじゃないよ」
笑みを含んだその声は、懐かしい、先代住職だ。
しゃがんだ円真さんが、顔だけをこちらに振り向けて、喋っている。
「洗われぬ業は、無い
流れゆかぬ想いは、無い
善きもの 悪しきもの
立ち位置で変わるであろ」
いかつい顔が、にこりと笑う
「しかしな こんなもんはなかなか
預かっちゃいかんよ」
ふっ と消えた。
先代住職の気配と、ここへ持ち込んだもの。
住職が、引き受けて下さったのだろうか。
「あぁ」
円真さんはため息をつき、ぱちぱちと目をしばたかせた。
「えへへ」
照れたように笑う。
「あれ、よ。ずいぶん殺めたもンだな」
円真さんとは、何者なのだろう。
たしかにあれは、人を数百は斬ったという、処刑人の刀だ。その業を抜いて、ここへ頼みに来た。
詮索するのはやめておこう。
流れが冥府へと続いて行けば、それでよいのだ。