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インプットの時期と、アウトプットの時期

よく、今はインプットの時期だね、とか、アウトプットしまくる時期とか、そういう表現に出会う。
無粋にもその実を私なりに表現すると、インプットの時期とは、情報などを仕入れることによって感性や知識・経験を磨き蓄えることで、アウトプットの時期とは、それを自分なりの形に表現することだ、という言葉になるのだけど…

もっと単純に、人の話を聞きたい時期と、人に話をしたい時期、と表現した方がいいんじゃないかという気もしている。

今私は割とアウトプットの時期。表現したくて、書きたくて、作編曲したくて、でもなんだかうまくいかなくて四苦八苦してる状態。
だけどうまくういかないからってインプットに切り替える気持ちにはならない、そんな時期。

おしゃべりと文章

私はおしゃべりによるアウトプットがあまり得意ではない。どうやって説明したらうまく伝わるかが感覚的にわからず、考え込んでしまい、考え込んだからといってうまく伝えられない。
多分、「その場で考える」「うまく切り返す」「臨機応変に」という部分が絶望的に足りないのだと思う。
だから、私のインプットはもっぱら、文章か音楽かどちらかである。場合によっては両方だ。

確実に、電話よりメール。井戸端会議よりSNS。

でも不思議なんだよな。
しゃべるのと文章書くのって、そんなに違うと思えないのに。
特に今なんか、全く構成考えずに文章書いてる。
だったらしゃべる時だって何も考えずにしゃべればいいのでは? と、感じなくはない。

「間違いが無いか」

が、そんなに大事なのだろうか?
…けど、考えてしまうのだ。間違いが無いか。誰かを傷つけるような文章になっていないか。学術的におかしなことを言っていないか。

多分、自分が傷つきたくないからなんだろう。

けど…自由とリスクは表裏一体。
表現の自由は傷つける・傷つけられるリスクと表裏一体なのだ。

勉強すること

インプットするというのは、私にとってはとりもなおさず勉強することである。
私は勉強は嫌いだが、勉強して新しいことを学べるのは好きだ。
だからつい勉強する。

エクセルマクロ、新しい和声の教科書、統計学の基礎の基礎、そのあたりを勉強したり、復習したりしたいと最近は思っている。
思っているが…今はその時期ではない…。

知識と経験が、ぐるぐるぐるぐる回って、まるで水が温められてお湯になるように循環して温度が上がっていく。
そうでいたい。
今の私ならできるはずだ。

そして

傷つくことを恐れないのは難しい。
どうやって恐れないようにするかというと、傷つくのは人生の中で当たり前のことだと思う以外に私は方法を知らない。

だけど、でも、正直、人生って迷うのが普通なんだよな。
傷ついて戸惑うこともまた、人生の中で当たり前のことなんだろう。

俯瞰してみよう。

誰かに傷つけられたとしても、それもまた運命なのだろう。
私が悪いのでも、あなたが悪いのでも、彼や彼女が悪いのでもない。
運が悪いのだ。

ただ、それだけ…。

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