「アートは科学に勝てない」か?? ――科学系アートの目指すべき"知性と情動の融合"

★<正>の巻★

雑誌『美術手手帖』2019年10月号の特集は、「アーティストのための宇宙論」でした。


ぼくも、宇宙アートや科学系のアートには興味があります。それらはおおむね、科学にうとい人が見てもその綺麗さや不思議さに惹きつけられ、科学に通じた人ならば「ああ、あの話をこう料理したわけね」「あの理論をこういう仮説に使ったか」と読み解く知的な楽しみがあるものです。

★<反>の巻★

それに対して、磯部洋明さん(京都市立芸術大学准教授)という方が、科学者としてのバックグラウンドにもとづいて、「宇宙アートは面白いのか」という問題提起をしています:

宇宙アートは面白いのか
(中略)
ただ、宇宙を題材にした作品にふれて驚きや美しさを感じることはあっても、科学という方法で宇宙の姿を垣間見るエクスタシーを知ってしまった宇宙科学者にとって、もっとも直接的に心の深いところに突き刺さる感動はやはり科学からくるのではないかとも思う。(前掲『美術手帖』p.104)

うむ、たしかに。もしもアート作品が、精緻な美と知的興奮だけを追い求めているのだとしたら、アートではなく学問――たとえば科学研究そのもの――をやったほうが、たぶん強烈に充足感を味わえる(し、おそらく与えられる)ことでしょう。

ですから、そうでない「アート」がやりたいのならば、科学(学問)にはない「アートならではの何か」を表現することが必要になってくるはずです。

★<合>の巻★

では「アートならでは」のものとは、いったい何でしょうか。

視覚で味わう精緻な快楽、理性的な脳で味わう知的な興奮、これらは学問にもあります。それ以外となると、聴覚・触覚・嗅覚・味覚だったり、理性脳ではなく感情脳で味わう情動、といったあたりが候補でしょうか。

聴覚なら、現代音楽が代表でしょう。もし、前衛的で知的な側面と、聴覚的な快とが両立できるならば素晴らしい(稀です)。

また視覚・嗅覚・味覚でもって同時に味わえるものとして、料理があります。ですので料理はかなり究極のアートたりうるとぼくは思いますが、今はちょっと脇に置いておきましょう。以下では、アートの中でも特に美術というものに限って考えたい。

美術の範ちゅうだと、とりあえず、嗅覚と味覚を使うものはまだ難しいから、残るは、触覚にもうったえられる彫刻(彫像/スタチュー)ならば、「アートならでは」の候補かもしれません。それから、聴覚効果と組み合わせたインスタレーションなども。

さらに美術には、単に「感動」という言葉で表せない、さまざまな情動を呼び起こす作品があることを忘れてはいけません。たとえばムンクの『叫び』は、なんとも言えない「不安感」を感じさせる絵画として有名です。時代をさかのぼりミレーの『落穂拾い』なら、外国の風景なのになぜか「郷愁」を感じさせたりする。あるいは最近、水戸芸で個展があった内藤礼さん(※行きたかった)の場合は、「静謐さ」や「祈り」を感じさせるかもしれませんし、そのほかに「おごそかさ」なども、なかなか科学にはない感覚の一例です。…はなはだ行き届かない例示ですが。

★結びに★

というわけで今回、ぼくは一つの提案というか、整理をしたい。それは、
「科学系のアート、特に美術作品が、科学研究との違いを出すためには、①視覚的な快楽、②知的な興奮、だけではなく、③それ以外の情動や感覚をも引き起こす面がぜひ必要」
だろうということ。わかっている人には当たり前かもしれませんが、少なくともこの③が、今後ぼくが科学系アート作品を見ていく上では、特に注目するポイントになりそうです。

季節がだいぶさわやかになってきましたね。こちらは気持のよい夜です。

(かのわさび/すーりずむ)





理数系の教養は国力の礎。サイエンスのへヴィな使い手の立場から、素敵な科学の「かほり」ただよう話題をお届けしたいと思っています。