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呪術廻戦を見て感じた、人の光と闇のこと

※本記事には呪術廻戦・鬼滅の刃・チェーンソーマンのネタバレを含みます。

今更呪術廻戦を見て見ています。一人暮らしで時間ができ、アニメや映画を見ることが増えました。いくつかアニメを見る中で、感じたことの備忘録をしておこうと思います。


まず最初に、「呪い」「魔物」「化け物」を討伐するアニメが増えたなあということ。パッと思いつくだけでも「鬼滅の刃」「チェーンソーマン」なども、それぞれ「鬼」「悪魔」との対立関係に置かれています。

面白いのは、ヒーロー側・ヴィラン側それぞれ動機は、すべて「同じ目的を達成するための別の手段」であること。「お互いが存在するためにお互いを殺害しようとしている」という、鏡合わせの関係性であること。つまりそれぞれがそれぞれにとって「合理的」とも言える動機を持っているということです。


呪術廻戦の場合、争いのない世界を作るために、ヴィラン側は「呪術師(呪詛師)・呪霊だけの世界」を作り、ヒーローは「呪詛師・呪霊のいない世界」を目指します。

鬼滅の刃は鬼舞辻無惨が鬼となり、忌み嫌った人間たちを排除し鬼だけの世界を作る、というもの。作りたいのは「鬼だけの世界」。一方人間は「人間だけの世界」を目指します。

チェンソーマンは「悪魔のいない世界」vs「悪魔の世界」。チェンソーマンは考察が難しかったので一旦荒っぽく記述しています。


また、それぞれの対立の目的だけでなく、ルーツも同じであるということは共通点でしょう。呪術廻戦であれば呪いの根源は「人間の負の感情」であり、鬼滅の刃であれば皆元々は人間であり、チェンソーマンであれば悪魔の根源は人間の感情である恐怖です。つまり全て「人間を構成する要素を肥大化・具現化させたもの」と言えそうです。

ヒーローvsヴィランの対立関係を描く中で、視聴者側は人間の光と闇の両面を見ることになるのかも知れません。鬼滅の刃では、「人間は死ぬという、人間の一回性」が作中で何度も描かれています。だからこそ、心動かされるのかも。


それにしても、ヒーローたち運動会をやってる時に襲われすぎではないですかね・・・。呪術廻戦で東西対抗戦の回になった時に、「あれこの展開、何かで見たな」と感じ、ふと「僕のヒーローアカデミア」を思い出しました。

運動会では一斉に登場人物の説明ができる上、「それぞれがなぜこの状況にいるのか」というエピソードを描写できるのでとっても効果的。その代わり結構な回数を消費するので、長期化を想定しないとなかなか難しそうです。

ただ、こういった「それぞれの物語」が交錯するところに「この瞬間がある」というのも非常に人間的。だからこそ、自分の推しキャラが生まれたり、アニメが面白くなったりするのかもしれません。

アニメって奥深いですね。


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