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米津玄師の中の「女の子」-文豪三島由紀夫との不思議な符合ー

米津玄師の中には「女の子」がいるような気がしてならなかった。

そう思っていた。

惹きつけられてやまない絵

先日、仕事の合間を縫って「あやしい絵展」を観てきた。

これは幕末から昭和初期にかけて制作された、妖しい、怪しい、奇しい絵画を展示したもので、私のお目当ては少女時代から大好きだった女流画家上村松園ともう一人

甲斐庄楠音の絵だった。

かいのしょうただおと、と読むこの画家の絵を知ったのはたまたま観に行った美人画展でだった。

前述の美人画で知られる女性として初めての文化勲章を受章した上村松園の絵を観るために行った美術館で、私の目を捉えたのが甲斐庄楠音の描いた女性の絵だった。

その女性は、遊女、それもあまり恵まれた境遇にない遊女と思しき女性が、妖しげに微笑んでこちらを見ていた。

私は楠音の絵に不思議と惹きつけられてやまなかった。

著名な画家であるので、惹きつけられるのは当たり前と思われるかもしれないが、私は松園は大好きだが、同時代の美人画で知られる画家たちーほとんどが男性画家ーの絵はあまり好きではないのだ。

その理由は「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」という思いで美人画を描いた松園の清らかな女性たちに対して、あくまで私見だけれど、男性画家の描く女性たちには清らかさが感じられないためだ。

にもかかわらず、「清らか」どころか、妖しく穢れた匂いのする楠音の絵になぜ、自分は惹きつけられてやまないのか。

その後、私は意外なところで答えを見つけることとなる。

林真理子さんの短編集『着物をめぐる物語』でだ。

この作品は「着物」に纏わる連作短編集で、その四「お夏」に楠音が登場する。

楽屋で何気なく新聞を拡げた由美子は、「異色の画家・甲斐庄楠音氏死亡」という小さな記事を見つける。八十三歳の彼は、ガードマンをしている若い恋人のアパートで、急に具合が悪くなりそこで急死したのである。『着物をめぐる物語』その四「お夏」

楠音は最期、男性の恋人の家で急死する。

楠音はホモセクシャルだったのだ。

楠音に惹きつけられた理由

三島由紀夫に『女神』という短編小説がある。

その作品に登場する天才画家の言葉に次のようなものがある。

「僕は絵かきでも、女は一切描かないことにしているんです。女をわれわれが美しいと思うのは、欲望があるからですよ、ほんとうに欲望を去って、なおかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。自然とか静物なら美しさがよくわかるし、その美しさは多分贋物じゃないでしょう。しかし女はね。」『女神』

絵画にしても、小説にしても男性が女性を描く場合、どうしても性的な欲望を抱かずにはいられないのかもしれない。

それが女性の私には受け入れられないのかもしれない。

「きたない絵」

楠音の絵は独特な妖しさからそう呼ばれる。だが、その絵には欲望を孕んだ性的な眼差しはないのだ。松園の描く女性の清らかさとは違うけれども、それに私は惹きつけられてしまうのだろう。

そして女性である松園やホモセクシャルである楠音の欲望を孕まない眼差しで描かれた女性たち。その美しさは三島由紀夫の言葉を借りれば「その美しさは多分贋物じゃないでしょう。」ということになるのだ。

三島由紀夫の描く女性

三島も自伝的小説とされる『仮面の告白』で自身がホモセクシャルであることを描いているが、あくまで小説であるため、三島がホモセクシャルか否かは研究者の中でも意見が分かれるところである。

三島は第二次世界大戦中に19歳で天才と評されて華々しくデビューしたが、その一年後の敗戦で、世の中の価値感は一変し「無頼派」と呼ばれる坂口安吾、太宰治らがもてはやされ、三島は20代にして「過去の作家」という烙印を押されていたという。その中で「無頼派」よりも、無頼で過激なものを書かなければならないという気持ちで『仮面の告白』を書き上げたと思われる。三島の中に同性愛的な傾向はあったと思われるが、それ即ちホモセクシャルかというと、それは三島本人のみが知る事であろう。

ちなみに『仮面の告白』の編集者は「教授」こと坂本龍一さんのお父様、坂本一亀氏である。一亀氏は三島を研究する上で重要な証言をしている人物でもある。

とはいえ

「ほんとうに欲望を去って、なおかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。」

そう、作中人物に言わした三島由紀夫は

欲望を取り去らなければ、女性の本当の美しさは描けない。

そう考えていたのだろう。

そのせいだと思うが、男性作家の中で三島の描く女性だけが、私にとって違和感のない女性なのだ。

他の男性作家たち、三島よりも自分の好みにあう作風の作家は沢山いるのだが、女性を描いた場合、誰一人としてしっくりとくることがない。

この感覚は私に限ったことではないようで、三島由紀夫の研究者だった学生時代の恩師(女性)も三島を研究した理由を「男性作家の描く女性は違和感があるが、三島の描く女性が不思議と違和感がない。」と仰っていた。

「そこはそうは思わないな」、「そうじゃないんだよな」

三島以外の男性作家の描く女性たちには、そういう気持ちを持ってしまうが、三島の描く女性たちには、そういう気持ちは湧いてこないのだ。

そして、もう一人男性で、そういう気持ちは湧いてこない作品を作る芸術家がいる。

それは、音楽家の米津玄師さんだ。

米津玄師の中の「女の子」

米津玄師の中には「女の子」がいるのかなと思っていた。

それは米津さんが女性目線で書いた詩が、あまりに自然で女性の私にもしっくりくるからだ。それも私の中に今も息づく女の子の部分に。

米津さんの曲で明らかに女性目線の曲は

”アイネクライネ”『YANKEE』

〝あたしはゆうれい” 〝シンデレラグレイ”『Bremen』

〝鳥にでもなりたい”『MAD HEAD LOVE / ポッピンアパシー』

〝ゆめくいしょうじょ”『ピースサイン』

また、大ヒットした〝打上花火”、〝Lemon”、〝Pale Blue”。

〝打上花火”は女性目線と男性目線が交互いに、〝Lemon”、〝Pale Blue”は女性目線とも男性目線とも、それが交互ともとれる曲だ。

ここでは、明らかに女性目線の曲について書きたいと思う。

”アイネクライネ”

誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう
あたしは石ころにでもなれたらいいな (中略)                あなたが居場所を失くし彷徨うくらいならばもう
誰かが身代わりになればなんて思うんだ ”アイネクライネ”

男性から見たら「石ころにでもなれたらいいな」という控えめな子が突然利己的になる様に思うかもしれない。自分のためには、自分が犠牲になってもいいと思うのに、愛する者のためなら誰かが犠牲になればいいと思う。女性は年齢とともに図々しくなると言われるけれど、それは夫や子どもといった愛する者が増えてゆくせいだと思う。まだ女の子である時代にもその萌芽があるのだ。

”あたしはゆうれい”

あたしはゆうれい あなたはしらない                 涙の理由も その色さえも                      それでもきっと 変わらずにずっと                  あなたが好きよ 馬鹿みたいね                    ひゅるる   ”あたしはゆうれい” 

コミカルな曲調なので誤魔化されてしまうけれど、この曲の詩はとても切ない。内気な女の子の片思いの曲だと思うけれど、今の私が聴くと自分の米津さんへの思いのように聞こえてしまう。いずれにしても好きな相手は自分の存在さえ知りもしない。

「それでもきっと 変わらずにずっと                         あなたが好きよ 馬鹿みたいね」

これは”アイネクライネ”にも通じる相手に対して見返りを求めない「無償の愛」だ。男女平等やフェミニズムの考えには反するかもしれないのだけれど、この「無償の愛」はなぜだか女性である自分の中にずっと存在し続けている。

〝シンデレラグレイ”

ねえどうして、そうやってあたしのこと馬鹿にして           優しさとか慰めとか与えようとするの?                その度々に惨めな思いが湧いてきて                  どうしようもない気持ちになるってわかってないの?〝シンデレラグレイ”

〝シンデレラグレイ”は「どうしようもない気持ち」から始まる。

「どうしようもない気持ち」

そうとしか言えない気持ちになる。「優しさとか慰めとか与えようと」されると。それは相手の優しさだとしても、「あたし」が欲しい優しさでない。

そして、最後は

痛む心 癒えないのは 無様なほどに期待しているから         あなただけに その声だけに 優しくされたかっただけだったのに〝シンデレラグレイ”

ただ「優しくされたかっただけ」。

与えられる「優しさ」は、「あなた」が「あたし」をか弱い女の子として扱って対等には見ていない場合の「優しさ」だ。本当の「あたし」を見てくれることを「無様なほどに期待している」のだろう。

その気持ちはとても、良く分かる。「優しさ」を与えられると悔しい時がある。欲しいのは表面的な「優しさ」ではなく、本当の「あたし」を見てくれる「優しさ」なのだ。

それが叶えられたとき「どうしようもない気持ち」は、消えてゆくのだろう。

〝鳥にでもなりたい”

あなたが愛してくれないなら
あたしは生きてる意味なんてないわ
今更どこへもいけないなら
きれいな鳥にでもなりたいわ〝鳥にでもなりたい”

これだけ聞くと我が儘な女の子の様に思える。「あたし」を愛してくれないなら、拗ねてしまうような。

だが

ねえねえねえ連れてって!連れてって連れてって!
あなたの生まれたあの街の中
あなたを育てたあの部屋の中〝鳥にでもなりたい”

今の「あなた」だけではなく、生まれた時からの今までの「あなた」も含めて丸ごと好きなのだ。この気持は自分も恋人に持ったことがある、母性的な相手の全てを包み込むような愛なのだ。

〝ゆめくいしょうじょ”

君の悪い夢も
私が全部食べてあげる
その涙で胸が痛いの〝ゆめくいしょうじょ”

”アイネクライネ”、”あたしはゆうれい”、〝シンデレラグレイ”、〝鳥にでもなりたい”では「あたし」だったのが、この曲だけは「私」になっている。

どうだろう。「あたし」という一人称が少し蓮っ葉で幼い感じがするが、「私」になると品があって大人っぽい感じになる。

けれど曲の題名は〝ゆめくいしょうじょ”

少女の中にある、大人の女性の感情「無償の愛」や「母性愛」が描かれているのような気がする。

愛する人の「悪い夢」。

それを自分が全部食べてあげたい。

美しい感情のようだけど、これは相手を全て飲みこんでしまうような「母性愛」の恐ろしい側面でもある。相手に対する愛情が深いからこそ、相手の全てを飲みこんでしまいそうな愛情は、自分の中にも潜んでいる。

男性にも関わらず、こんなふうに女性の心を細やかに曲にするできる米津さん。だからこそ米津玄師の中には「女の子」がいるような気がしてならなかったのだ。

「三島由紀夫に似てる」!?

米津さんのインスタライブで、一度だけコメントを読んでもらったことがある。

それは

「三島由紀夫に似てる」

というもので、それに対し米津さんは

「顔ってことかな~。似てないと思うけどな~」

と幾分不審そうに呟いていた。

もちろん、顔が似てると思っているわけではない。

三島も米津さんも作品の中で描く女性が女の私からみても、得心のいくものという点が似ているのだ。

三島由紀夫は、以前、米津玄師さんも好きな作家として名前をあげていた作家だ。

三島と親しかった人たち、美輪明宏さんや瀬戸内寂聴さんは三島のことを「優しい人だった」と言う。かくゆう私も映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』で1969年5月13日東大駒場キャンパスで三島由紀夫一人と1,000人の東大全共闘との討論の模様を観たときに、彼の作品からは感じ取れなった三島の「優しさ」を感じた。

当時押しも押されぬ大作家だったにも関わらず、自分とは対立する意見の学生、それも三島は東大出身だから自分の随分と後輩にあたる若者たちに対して、真摯で優しい、でも、阿るわけではない態度で接していた。

このスタンスは2019年9月11日の『news zero』に出演した際「自分と対岸にいる人の主義主張みたいなものを一旦引き受けてみるそれくらいの余裕は持って生きていたいなと。」と語った米津玄師さんに通じるものがある。

「対岸にいる人」

男性にしみたら女性もそうだろう。相手のことを「一旦引き受けてみる」というのは、自分の視点で相手を判断するのではなく、相手の視点に立ってみるということだと思う。

三島と米津さんの描く女性が、女性である私にもしっくりとくるのは、三島がホモセクシャルなせいでも、米津さんの中に女の子がいるわけでもなく、ひとえに「一旦引き受けてみる」という相手に対する優しさのせいであると思う。

そして、もう一つ理由がある。

イラストレーターとしての顔も持つ米津さんの文字通り「描く」女性たちには、私は惹きつけられてしまう。その理由は松園や楠音の絵に惹きつけられた理由と同じだった。

2015年12月30日のcakesのインタビューで米津さんは自身の「描く」女性についての質問に対し、次の様に答えている。

ーただ、米津さんの描かれる女性像は、いわゆる萌えやアニメキャラのタッチとは違いますね。凛としていて、男性に媚びていないような印象があります。                                米津 いわゆる二次元的なキャラがあまり好きではないっていうのはありますね。男の欲望のままに表現されるものに対する嫌悪感がある。それが自分の中での倫理観なのかもしれない。cakes「米津玄師、心論。」ー怪獣として育った少年が、神様に選ばれるまで。ー

米津さんも欲望を孕まない眼差しで女性を「描いて」いるのだ。

欲望を取り去らなければ、女性の本当の美しさは描けない。

三島も米津さんも、欲望を取り去った視点で女性を描いているからこそ、作品の中で女性からみて違和感のない女性を描くことに成功しているのだろう。

米津玄師と文豪三島由紀夫との不思議な符合

青白い顔をした文学少年だった三島は後年、ボディビルで体を鍛え、自ら作った私設軍隊「盾の会」の面々ともに自衛隊に体験入隊をする。

身体性を伴わないネットの世界から現れた米津さんも、”LOOSER”のMVで華麗なダンスを披露し、〝Flamingo”では舌打ち、〝死神”では足音といったように曲の中にも自分の体を使った音を登場させるようになった。

三島と米津玄師、二人の天才は二人ともが身体性に傾いていくのだ。

頭だけでは、どうにもならない。

頭のいい二人だからこそ、そういう考えに到ったのかもしれない。

大正生まれと平成生まれ、文学者と音楽家という違いはあれど、二人の天才二人ともが身体性に傾いていくのは、不思議な符合な気がしてならない。

参考文献

『彼女たちの三島由紀夫』中央公論特別編集 中央公論社

『着物をめぐる物語』林真理子 新潮社

『女神』三島由紀夫 新潮社


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