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「米津玄師」の二十代 ー震災で始り、受賞で終わるー

 令和3年3月3日、米津玄師さんの芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)の受賞が発表された。

まだ、今日3月7日の時点では米津さんが出席されるかどうかは不明だが、贈呈式は3月9日。全くの偶然ではあるが、米津さんの30歳の誕生日の前日である。

10年前、米津さんの二十歳の誕生日の翌日に東日本大震災が起こった。

東日本大震災で始った彼の20代は、国の栄誉あるとされる賞の受賞で締めくくられることとなる。

贈賞理由は「米津玄師氏は2018年に発表され、ロング・ヒットとなった「Lemon」でその存在を広く知られ,Foorinへの提供曲「パプリカ」のヒットにより幅広いファンの支持を得た。ヒップ・ホップ的なセンス,歌謡曲的な要素を継承したメロディー,エレクトロニクスとアコースティックを融合させた斬新で充実した完成度の高い音楽性が評価され,アルバム「STRAY SHEEP」では新型コロナウイルス禍による混沌(こんとん)とした社会状況を反映した新曲も収録。沈静化したポップス界の再活性化を促す端緒となった。」

二十歳になった途端に未曽有の大震災が日本で起こったこと。

二十歳最後の年は、新型コロナウイルスCOVID-19による未曽有の混乱と人々の分断が世界中で起こったこと。

これは不思議な符号だけれど、東日本大震災の翌年に、それまで「ハチ」としてのみ活動していたのを本名の「米津玄師」としても活動を始め、地震を封じる「鯰絵」をジャケットに描いたアルバム『diorama』でデビューを果たした。「日本」において。

そして、新型コロナウイルスCOVID-19が世界中に蔓延した2020年、表題曲「迷える羊」でコロナ禍の混迷を描いたアルバム『STRAY SHEEP』を発表した。NYのタイムズスクエアの街頭ビジョンで『STRAY SHEEP』の広告映像が流れ、NY五番街のユニクロ店舗に同アルバムジャケットのアートワークが掲げられ、世界3億5千人が遊ぶゲーム、フォートナイトのバーチャルライブを行い、サブスクリプション(定額課金)サービスでハチ時代を含めて全楽曲が解禁と、「米津玄師」が「世界」へ出て行った年であった。

それはまるで、東日本大震災の時は日本の人々の心を救うように、コロナ禍では世界中の人々の心を救うように、私には思われた。

「間違いなく10年に1度の才能を持ったとんでもないアーティスト」、「僕が今この文を書いていて気掛かりなのはむしろ「10年に1度」ではなくて「それ以上」の存在なのではないか。」(『ROCKIN'ON JAPAN』2012年7月号)山崎洋一郎編集長にデビューアルバムでそう言わしめた米津玄師は掛け値なしの天才と呼んでいいだろう。

天才と呼ばれる人の宿命で、時代が彼に世の中を救うことを課してしまうのか、それとも、避けられない大きな厄災のために、せめて人の心を救うことができる才能のある人が天から遣わされるのだろうか。

10年前、震災後には、世の中を覆うように聞かれた「絆ーきずなー」という言葉は、コロナ禍の今は拭ったように忘れられ、聞かれることもない。愛する人や、住み慣れた故郷を奪われた人たちの傷は癒えることはないのに。

今のコロナ禍の混乱も、忘れられていくかもしれない。今亡くなっていく人の死は「数字」となって、悲しみ、戸惑いは当事者のみに傷を残して。

けれど、米津玄師の『diorama』と『STRAY SHEEP』は、亡くなった人々、傷ついた人々の墓標となって残っていくことだろう。

もうすぐ、終わる「米津玄師」の二十代。

日本が、そして世界が未曽有の厄災に見舞われ、それを彼が癒す役割を背負ってしまった十年だった。

今から迎える「米津玄師」の三十代が、「声が出せるような喜びが 君に宿り続けますように」〝ゆめうつつ”、彼が幸せや喜びを心の底から謳うことのできる十年であらんことを、祈ってやまない。


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