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吉田棒一の文体について|議事録tweet分析

吉田棒一「第三のギャラガー」


吉田棒一「第三のギャラガー」(2022年9月発行)読了。
前回読んだ「ブロッコライズド」(2019年8月発行)からさらにパワーアップしている。



◼️言葉遊び

偏執狂的に言葉の連想を繋ぐスタイルは一層度を越して止まらない。

徳川家康

徳川秀忠

徳川家光

……(256番目)
ジュース飲み彦

お腹、痛彦

遺体、臭彦

草津温泉、熱彦

……(308番目まで続く)

「第三のギャラガー」

ここだけ取り出されても不可解かもしれないが、とにかく言葉の泉が溢れ転じていく様は、読者の方も経験知識教養を試されることとなる。


◼️詩情

詩を探しながら歩く。詩は見つけたり拾ったりするもので、最初からそこにある。誰からも気付かれていないものを、気付いた最初の誰かが拾い、それが彼らの掌やポケットの中で体温とともに詩に姿を変えていく。詩は決して拾い尽くされない。時代の変化とともに新しい詩は生まれ続ける。深夜のレンタルビデオ店の色褪せたVHSの背表紙、ゲームセンターの筐体に置かれたアルミの灰皿、国道沿いの電話ボックスで長電話をする女。彼女の足元に落ちていた詩はかって時代とともにあり、今ではすっかり消え失せている。一方で、詩はノスタルジーとも違う。電車の乗客の九割がスマートフォンを覗き込んでいる風景が時を経て風化したとしても、そこに詩は生まれない。理由は簡単で、今既にそこに詩がないからだ。

「第三のギャラガー」

この詩とは詩情のことだと思う。粗いフイルム映像で見るような、どうしようもなさやるせなさの、そこに人間の愚かさや愛しさが見え隠れするもの。
未来のことに詩情を感じることはできない。今この瞬間掴んだ詩情は、書き留めている間に過去になる。だからノスタルジーと混同しやすい。
ポケットにしまうというのは、取り出した時にまた「今」になる。吉田棒一の文章には、そのように取り出された詩情が感じられる。


◼️文体

久し振りのセックスはうまくいかなかった。過去にやってきたことと同じことをしているのに彼女は頭にクエスチョンマークを浮かべて「もう始まってる?」みたいな顔をした。

「第三のギャラガー」ネバーエンドロール

掌編の冒頭部分、この文章から読者は何を感じるだろう。
欲情、猜疑、焦燥、困惑、羞恥、嘲笑、侮蔑、揶揄、諦念、……
淡々と事実が語られている。彼女の顔の描写は主観だがそれに対する感情の説明はない。

「10 to 10 past 10」のようなギャグ要素なしの作品で、吉田棒一の文体はどこまでもクールで情感はない。そこに読者は各々の琴線に触れ合わせたエモを見いだす。


このような文体の正体はなんだろうか。
吉田棒一のX(Twitter)に興味深いポストがあった。

吉田棒一  X(Twitter)


吉田棒一の自己紹介には「サラリーマンのかたわら、自費出版、文筆活動を行う。」と書かれている。その仕事で議事録を書いているという。
しかし仕事で議事録を書くことが小説の文体に影響することなどあるだろうか。
吉田棒一のXで「議事録」を検索してみると、想像以上のヒットがあった。

「2011年3月からTwitterを利用している」とあるが同年7月、既に議事録についてtweetしている。

しかも「メモをひとつもとってない」とか「出てない」会議の議事録を作るという難易度である。
ここから始まり、総tweet数からすれば少ないものの定期的にコンスタントに議事録についてtweetしている。

2012年には「寝てた」会議の議事録を作っている。

2013年「まだ開かれていない」会議の議事録を作る。

2016年、議事録を作る楽しさを感じ始める。

自身の作品を彷彿とさせる名言も。

2017年、架空の議事録を作る。

2018年、ついに議事録で開眼する。

議事録と詩がリンクした。

2020〜21年、議事録の文章がどんどん上手くかつ詩的になっている。

2022〜24年、会心の議事録を作る。

2024年2月、なんと議事録担当でなくなってしまった?
別の担当者になって「後半まとめ部分のウェットさが激減した」とある。これは吉田棒一の文体の核心に触れる重要事項ではないだろうか。
議事録のまとめ部分という情の入る余地のなさそうな部分に込められていた「ウェットさ」とは。

このtweet分析からわかったことは、やはり吉田棒一の文体と議事録には深い関係がありそうだということだ。



敬称略


【吉田棒一  受賞作品】

■第1回NIIKEI文学賞ライトノベル部門大賞『アッぽりけ』

■第1回NIIKEI文学賞エッセイ部門佳作『山山』

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