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備忘録:パレスチナ問題1

複雑なパレスチナ問題を、シオニズム運動からイスラエル建国まで個人的に整理しました。
↓参考文献。

この本では、パレスチナ問題を分かりやすく解説しています。要約して紹介します。


キーワードの解説

イスラム教
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じ唯一神を崇めている。イスラムの視点からは、ユダヤ教、キリスト教の教えの延長線上にムハンマドの教えは位置している。
イスラム教徒にとって、イエス・キリストは預言者として尊敬されているが、神の子ではない。そしてイスラム教徒にとって、最後にして最大の預言者はムハンマドである。   

スンニー派とシーア派
イスラム教はスンニー派とシーア派に分かれる。スンニー派はイスラム教の慣習を大切にし、シーア派は預言者であるムハンマドの血統を重視している。イスラム教徒の全体の9割はスンニ派である。パレスチナ人の9割がイスラム教徒であり、そのほとんどがスンニー派に属している。

パレスチナ人とアラブ人
誰がアラブ人、あるいはアラビア人であるかを決めるのは難しい。便宜上、アラビア語で生活する人々をアラブ人とする。
アラブ連盟というアラブ諸国の組織があり、ここにPLO(パレスチナ解放機構)もパレスチナを代表して所属している。
つまり、パレスチナ人はアラブ人であるといえるが、アラブ人はすべてパレスチナ人ではない。


パレスチナの歴史(イスラエル建国まで)

「 2000年にわたるイスラム教徒とユダヤ教徒の宗教対立」、そうした言葉で語られることの多いパレスチナ問題だが、そこまで単純な話ではない。そもそも、イスラム教は7世紀に成立したのだからその歴史は1400年ほどである。さらにパレスチナにはキリスト教徒も多数いる。

シオニズムを後押しした19世紀末に起きた「3つの波」

現在まで続く問題が起こり始めたのは19世紀末になる。ヨーロッパのユダヤ人たちが、パレスチナに移り始めたことに端を発する(シオニズム運動)。そして、既に生活していたパレスチナ人と移り住んだユダヤ人との間に紛争が始まった。つまりイスラエルとパレスチナの争いは約 120年間にわたる。

なぜ、ユダヤ人はパレスチナに移住しようと思ったのか?それはヨーロッパで 19世紀末からヨーロッパに民族主義が広まったからである。これが、ユダヤ人の迫害を引き起こした。

民族主義での「民族」とは客観的なものではなく、各々の主観に基づくものである。例えば、同じ言葉を話していたり、同じ宗教を信じていればそれは「同じ民族」となる。この民族主義が高まってくると、多数派のキリスト教徒が少数派のユダヤ教徒を迫害し始めた。

そうすると、ユダヤ教徒だけの国をつくろうという考えがユダヤ人の中から出てくる。これがシオニズム運動の基盤となった(第1の波)

しかし、ユダヤ人はヨーロッパ人でもある。なぜ彼らはすでに人が住んでいる中東の地にわざわざ移り住もうと言う発想になったのか?そこに住んでいる人々のことをなぜ、考慮していないのか?

それは19世紀末が、民族主義の時代であったとともに、帝国主義の時代であったからだ。ヨーロッパやアメリカは勝手に世界を動かしていいという考えがこの時代にはあった。だからこそ、ユダヤ人はパレスチナの人々のことを全く考えずに、ユダヤ人の国家を建国したのである(第2の波)。

さらに、ヨーロッパでのユダヤ人は差別されて居住地を限定されていた(ゲットー)。その結果、彼らの伝統的な仕事は金貸し、商売人、医者、弁護士など才覚を必要とされる職業になり、社会の基盤となる農業に従事しているユダヤ人はほとんどいなかった。

自らの国で、地に足がついた仕事である「農業」に従事する。これはシオニストの夢であった。さらにここに当時、ヨーロッパで流行っていた社会主義の潮流が加わる。これは安い賃金で労働者を雇う、つまり「搾取」を否定する考えのため、シオニストたちはパレスチナ人の小作人たちを雇わずに、自らの手で農業に従事した。彼らはパレスチナ人の不在地主(その土地に住んでいない地主のこと)から土地を購入し農業に従事し、キブツといわれる私有を否定する農業共同体を組織した。つまり、シオニストたちが土地を購入する事は、必然的にパレスチナ人たちの排除につながったのである(第3の波)。

イギリスの三枚舌外交

パレスチナはシオニストが移住するまでオスマン帝国の一部であった。そこでは、イスラム教徒もキリスト教徒、そして少数のユダヤ教が争いもなく共存していた。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発した。連合国と同盟国に世界が分かれて戦ったこの戦争では、オスマン帝国は同盟国側に参加していた。連合国側のイギリスは、オスマン帝国を混乱させるために、オスマン帝国支配下のアラブ人にこの戦争に勝利した暁には、アラブ人の独立国家を約束し、彼らの反乱を扇動した。これが、フセイン・マクマホン書簡である(一枚舌)。

しかし、それと同時に、イギリスは、シオニストにも戦争協力を求めた。戦争に勝利したのならば、パレスチナにシオニストの独立国家を作るという、上記とは矛盾した約束をしたのである。これはバルフォア宣言といわれている(二枚舌)。

しかし、さらにイギリスは同時期に、オスマン帝国のアラブ人地域をフランスと分割する約束をしていた。つまりアラブ人とシオニスト、両方に戦争協力を求めておいて、挙句の果てに自分たちのものにしようとしたのである。フランスとの間に、結んだ約束ををサイク・ピコ協定という(三枚舌)。

第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスが統治する地域となった。シオニストたちは、イギリスにユダヤ人のパレスチナへの移住を許可するように働きかけ、イギリスは消極的ながらもこれを認める。しかし、ヨーロッパのユダヤ人はこのシオニズムに同調していなかった。特にヨーロッパで成功しているユダヤ人の場合は、それが顕著だった。そもそも、同じユダヤ教徒だからといって(日本の仏教徒とタイの仏教徒が同じ仏教を信仰しているからといって、“仏教徒人”になり得ないように)ユダヤ教徒だけの国を作ることに対して、多くのユダヤ人は否定的であったのだ。しかし、1930年代になると状況は一変する。

ナチスの台頭とシオニストの流出

1933年にドイツでナチス政権が成立すると、ユダヤ人の排除が始まった。ナチスはこう主張した。世界一優秀なはずのドイツ人は第一次世界大戦で敗北した。その理由は国内のユダヤ人の存在を許し、交配によりドイツ人の血を汚してきたからである、と。そしてドイツ国内でのユダヤ人の迫害が始まると、他の国にユダヤ人は逃れようとしたが、ヨーロッパにおいてユダヤ人を受け入れる国は少なかった。

必然的にユダヤ人たちはパレスチナに流入することになった。皮肉にもシオニストにすら成しえなかった“偉業”をヒトラーが達成したのである。資本と技術を持ったユダヤ人の流入により、パレスチナにおけるユダヤ人の社会は大いに発展した。しかし、これは同時に、パレスチナ人たちの反発を招くことにもなった。  

そして1939年に第二次世界大戦が勃発。当初優勢だったドイツ・イタリアを中心とする枢軸国はヨーロッパの大半を支配下におき、ユダヤ人の絶滅政策を実行する。

イギリスのパレスチナ放棄とイスラエル建国

第二次世界大戦終了後、ヨーロッパで生き残ったユダヤ人たちはパレスチナを目指すことになった。

ところで第二次世界大戦時、中東全体でのムードは、自分たちを支配していたイギリスやフランスを相手に戦っているドイツに対して同情的であった。しかし、パレスチナのユダヤ人に限っては、親イギリスであった。ユダヤ人を迫害するナチス、ドイツと戦うイギリスを支持するのは当然の流れであった。

しかし、第二次世界大戦における連合国側の勝利が確実になると、すると状況は一変する。シオニストたちは、反イギリスに転じ、イギリスを自らの居住地から追い出そうとした。これはシオニストたちにとっては、ゲリラ攻撃であり、イギリスにとってはテロ攻撃を受けた、となる。

イギリスの被害が大きくなると、イギリスはパレスチナの放棄を決める。イギリスは消滅した国際連盟の代わりに、新たに発足された国際連合にパレスチナ問題を放り投げた。国際連合は、同じ土地をパレスチナ人とユダヤ人が争っているのだから、その土地を分割する案を1947年にだした。国連総会はこの提案を賛成多数で可決。

シオニスト側はこれを受け入れて、1948年にイスラエルの建国を宣言した。その際に、75万人のパレスチナ人が自分たちの土地から追放されたのである。この時のユダヤ人の人口は 65万であり、パレスチナ人は 100万を超えていた。つまり、少ない人口の方に半分以上の土地を与える内容である。これにパレスチナ側が反発するのは当然であった。

ここから約60年にわたる近隣諸国を巻き込んだイスラエルとパレスチナの紛争が始まる(第一次中東戦争〜第四次中東戦争)

大戦終了後にナチスドイツのユダヤ人虐殺が明るみになり、ユダヤ人に対して同情的な国際世論が生まれたことも、イスラエル建国の一因であった。いわば、ヨーロッパ人は今まで差別してきたユダヤ人への借りをパレスチナ人のつけによって返したのである。

今回はここまで。次回に続きます↓









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