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仏典ジャータカから読み解く「不快な女の性欲」

仏教には膨大な数の仏典(仏の教えを記した書物)が残されています。その数は最大で84,000ともいわれます。

その中には庶民に親しみやすいように書かれたものもあり、その代表といえるものが「ジャータカ」です。

ジャータカを一言でいえば、「お釈迦様の前世物語」です。お釈迦様は鳥獣、庶民、王族、精霊などに生まれ変わりながら仏陀(シッダールタ)として現世に生を受けたとされます。その前世での物語が短編集としてまとめられているのです。

さて、このジャータカですが、仏教的にはそれが実話であったかどうかは正直問題ではなく、何を伝えたかったかが重要だと思います。実際に、生きていく上での教訓がジャータカには含まれています。

その教訓については現代にも通用するものも多分にあります。しかし中には現代的価値観と照らし合わせると、少しギョッとしてしまうものもあります。この記事ではその一つをとりあげて自分なりに考察していこうと思います。

ブッダのホンネとしての「ジャータカ」

ジャータカの中の話の一つに「不快な呪文物語」というものがあります。この話を詳しく紹介している書籍が『怖い仏教』です。

この本では初期仏教団、つまりブッダが存命だった頃の仏教団内で起きた、あまり表に出したくないトラブル…端的に言えば下半身に関するトラブルについて詳しく書かれています。

仏教においては、性欲も制御しなければいけない煩悩の一つですが、中々にそれは大変であったことがブッダの弟子達の様々な“粗相”を紹介しつつ解説しています。

その話のながれで、上で挙げたジャータカの一話が出てくるのですが、筆者はまずジャータカそのものについて興味深い見解を述べています。

あらゆる物事にはホンネとタテマエがあり、宗教もまた例外ではありません。「三蔵」、とりわけ『経蔵』や『論蔵』におさめられた学僧の書いたアカデミックな仏典をタテマエの仏典とするならば、『ジャータカ』はホンネの仏典です。

『怖い仏教(小学館新書)』平野純著 pp.75-76

ジャータカには仏教の、そしてブッダのホンネが含まれている、と主張しているのですね。

では、それを踏まえて「不快な呪文物語」を読んでいきましょう。

「女の性欲」を説いた物語

「不快な呪文物語」のあらすじとしては以下のようになります。

“あるところに聡明な青年がいた。ある日、母親に「『不快な呪文』を森の賢者に教えてもらいなさい」と言われた青年はそれに従い、森の賢者のところへ行く。

森の賢者はまず、自分の母親(120歳の盲目の老婆)の世話をさせた。青年は一生懸命に世話をし、体を洗う時などはその体を褒めていた。

それを聞くうちに老婆は、青年は自分を抱きたいと思っているに違いない、と思い始める。そして彼女の中には大きな欲情が湧き起こった。
老婆は「私が欲しければ息子(森の賢者)を殺してくれ」と青年に語る。「そんなことはできない」と青年は答えるが、老婆は「ならば自分で殺すから協力しろ」とまで言い出す。

混乱した青年は、素直にそのことを森の賢者に話す。森の賢者は全く動じず、青年にひと芝居うつことを提案する。

その芝居にまんまとはまった老婆は自分の思惑を息子に知られたことが分かり、そのショックで死んでしまう。”

そしてこの話の最後の方には、森の賢者の印象に残るセリフがあります。

きみね、『不快な呪文』などというものがあるわけじゃないのだ。強いていうならば、それは女の性欲の別名なのだ。(中略)そしていま、きみはわたしの母親のおこないをみて、真実をまのあたりにすることができた。きみは、女は死ぬまで性欲に燃え、それを満たすためなら何でもする生き物だということを知ることができた

『怖い仏教(小学館新書)』平野純著 pp.79-80

「怖い仏教」の筆者は、この物語に登場する森の賢者にはブッダその人の姿が投影されており、聡明な青年はブッダの弟子たちの投影である、と解説します。そして仏教の家族否定思想とセックスの禁圧の思想は切り離せないひとつのものであった、と主張するのです。

なぜ“不快”なのか

不快な呪文、それは女性の性欲であった、というのがこの話のオチですが、誰にとって不快なのでしょうか?これは深く考えるまでもなく「男性にとって不快である」ということでしょう。

初期の仏教団が女性の出家を認めていなかったこと、認めた後も圧倒的に男性の出家者の方が多かったことを考えると、ジャータカ物語の当事者は自然と男性となり、女性は第三者とされるのは必然だったのだと思います。

ではここで、この物語に登場する森の賢者の母親である120歳の盲目の老婆、彼女の何が具体的に不快なのか一人の男性として、個人的な見解を述べていきたいと思います。

1.恩知らずである

あらすじでは省きましたが、この老婆、実の息子である森の賢者と仲は悪くなかったのですね。それどころか、森の賢者は母親である献身的に世話をしていた、と書かれています。

つまり、そんな孝行息子である森の賢者をあっさりと亡き者にしようとするのです。今まで世話になってきた人を邪魔になったから排除しようとするのは恩知らずである、といっていいでしょう。

2.過度にナルシスティックである

そもそもなぜ、老婆は息子である森の賢者を殺そうとしたのか?普通に考えれば「世話をしてくれる青年に惚れたから」になるでしょう。

しかし、これも深く読み込むと興味深いことが見えてきます。作中において青年は聡明だとはされていますが、特に容姿端麗とは描写されていません。そもそも老婆は盲目であるが為に、青年の見た目が分かるはずがないのです。

老婆は、青年の(お世辞の)褒め言葉を真に受け、「こいつは自分に欲情しているに違いない」と思い興奮しました。要は青年を媒介にして自分自身に欲情している、と言ったほうがいいでしょうか。

個人的には…120歳を超えていながら若い男性から求められる魅力を持っていると信じて疑わないこの老婆のナルシズムに嫌悪感を抱きました。

3.「子殺し」である

これは1と重複する部分もありますが、この老婆は青年に恋横暴した挙句に我が子を殺そうとします。好きな人ができたからといって母親が(この時点で成人しているとはいえ)自分の子を疎ましく思い殺そうとするのは、道義的に許されることではないでしょう。

さらに…当初この老婆は、青年に息子の殺害を依頼します。見返りは自分自身です。ここにも2で述べた老婆のナルシスティックな人格が垣間見えて、不快感がさらに増すのです。

「不快な呪文物語」は女性軽視か?

まずはじめに言っておきますと『怖い仏教』において、この「不快な呪文物語」は否定的な文脈の中で紹介されます。そもそもこの本は、初期仏教団内のブッダの弟子たちの下半身関係のトラブルをスキャンダラスに暴いていく、という内容に重点が置かれているのです。

性欲を抑えられないブッダの(男性の)弟子たちの醜聞を開示していく中、筆者は「女の性欲」を主題にしたこのジャータカをシニカルに評します。

男というのは、インドでも日本でも昔から、自分のことはヨソに異性の性欲の限界に好奇心を燃やすしょ ーもない生き物のようです。

『怖い仏教(小学館新書)』平野純著 pp.80-81

男は自分の下半身の暴走を棚に上げる一方で、女の性欲を一方的に悪しきものにしていてけしからん!というワケですね。

確かに筆者の主張にも一理あります。この「不快な呪文物語」を現代的な価値観で表面的に読めば女性軽視的な物語にしか見えません。

しかし、これから紹介する、新聞の相談コーナーに投稿された相談とその回答を読みつつ「不快な呪文物語」を読み返すと、このジャータカが内包する真の教訓が(私個人としては)わかる気がするのです。

フェミズムは女の性欲を全肯定する(現代日本における実例)

紹介するのは朝日新聞に連載された「悩みのるつぼ」に投稿された相談です。

相談者は男子高校生で相談内容は、両親が最近すれ違い気味であり(おそらくそれが原因で)母親が不倫をしている、どうしたら良いのか?というものです。


上にリンクを貼っておきます。有料記事ですので全ては閲覧できませんが、無料で読める回答者の社会学者・上野千鶴子氏の一文だけでも、彼女がこの男子高校生の悩みに対して、何を言いたいかが分かると思います。彼女の主張は実に明快です。

“「女」を封印せよという権利は息子にもない”

上野千鶴子氏は社会学者であると同時に女性学、ジェンダー学のパイオニアであり、日本を代表するフェミニストです。そんな彼女が母親の不倫問題について、「我慢しろ」と質問者の少年に対して突き放すような回答をしているのですね。

まあ、まさにフェミニズム的回答である、というのが率直な感想でした。「フェミニズム(feminism)」が「femina(女性)」から発生した言葉で、「女性尊重主義」と訳されるだけあるな、と思います。

ジャータカと重ね合わせて

ジャータカの「不快な呪文物語」と、上で紹介した相談はもちろん相違点があります。

第一に、ジャータカでの老婆は青年と共謀して、息子を殺害しようとしますが、上で紹介した相談では(当然ですが)そこまで殺伐とした事は起きていません。

しかし…。

母親の不貞行為を、日本のジェンダー学の第一人者である人物が称揚するばかりか、それを相談してきた、まだ10代の息子にそれを我慢しろと言い放つ。さらにはそれを朝日新聞という大手の新聞社がそのまま載せてしまう…これは別の意味で「殺伐としている」としかいいようがないと私は感じました。

さらに母親の不倫相手にしても、既婚者だと分かった上で交際を続けていたとしたら、もちろんそちらにも非があります。不倫相手はジャータカでは「青年」にあたりますが、彼が作中で老婆の誘惑に負けなかったのに対して現実では…。

男の下半身の無節操さが発端となり、さらにアカデミックな人物と大手新聞社という権威性をもつ存在が女性の不貞行為(性欲)を肯定することにより、結果として「女は死ぬまで性欲に燃えることになる」と上の実例を読んで私は思いました。

「不快な呪文物語」の特質すべきところとしては、では“女性の性欲そのものを直接抑圧しよう”という方向性にはなっていない、というところです。老婆は最後は死にますが、原因はショック死です。

青年と老婆の母親が理性を失わずに冷静に対処することにより、老婆は自滅することになります。だからこそ青年は“聡明”であり息子は“森の賢者”なのでしょう。

結論

結局のところ、“女の性欲についてはもうどうしようもないのだから男は自分自身(とくに下半身を)を律せよ”がこの「不快な呪文物語」が伝えたいことなのではないでしょうか?

女性の性欲を不快なものとしながらも、女性を直接支配・コントロールしようとしないところに仏教的なモノを感じました。

他者をどうするかよりもまず自分をどうするか。

それがこのジャータカに内包された一番の教訓なのだと感じます。

そして最後に…。

ジャータカでは「聡明な青年」が誘惑に惑わされずに己を律した結果として老婆は自滅することになります。

男性が己の性欲をコントロールすることは必ずしも女性の利益にならないということもこの物語は暗に示しているのではないでしょうか。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

仏教をわかりやすく解説した本の読書感想文も書いています。宜しければご覧ください


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