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温泉の隣に小鳥を埋めたら

最近、毎朝ウォーキングをしている。自宅から15分くらい歩くと海に出られるから、海沿いをだいたい一駅分くらい歩いて戻ってくる。

海沿いには広い道路が走っていて、それにくっついて下水処理場とかなにかの工事現場とか温泉施設(元々は別のものを建てる予定で工事していたところ、温泉が湧いていたから温泉施設にすることになったそう)とかが並んでいる。
そのあたりを歩くのは大体朝の7時台なんだけど、その時間でも忙しなく車は走っている。ちょうど近くの高校の投稿時刻とも被っていて、自転車通学の高校生もたくさん走っている。

先週、ちょうどその道路で小鳥を拾った。

小鳥はぺしゃんこに潰れていた。自転車に何度も轢かれ、何足もの靴に踏まれたのだろう。
わたしは小鳥を拾い上げてー血が固まって羽が地面に貼りついていたから、折れないように丁寧に剥がしてー歩いてきた道を戻って、温泉施設の近くの草むらに埋めた。小鳥は思っていたほど小さくはなくて、想像よりも深く穴を掘る必要があった。

土をかぶせて、遺伝子に染みついた習慣ともいえそうな感じで手を合わせた。埃っぽくなった手を払ってまた歩き出す。その日は昼間から雨が降るという予報で、気圧が低い朝だった。なんとなく体が冷えている感じがした。

ウォーキングから帰ると、簡単に筋トレをしてからいつもお風呂に入る。意外と汗をかくので身体を流して、外の空気と汗で冷えた身体を温める。

 背後から、偽善者、という声が聞こえた気がした。浴室にはわたし一人しかいなくて、白くひんやりとしたタイルには茶色いカビが生え始めていた。どうして浴室というのはこうも汚れが溜まりやすい構造になっているのだろう。

 中学の頃、同じ吹奏楽部で仲良くしてくれていた先輩がいた。たまたま近くに住んでいたので練習後は一緒に帰ったりした。
 先輩は裏で「偽善子ちゃん」と呼ばれている、とその先輩と同学年の男子の先輩が教えてくれた。おれはいいやつだと思うんだけど、なんか女子がね、となんとなくその話は続いた。「偽善子」先輩は、みんなが帰った後、たったひとりで部室を掃除するような人だった。そのときわたしは、初めて「偽善者」という悪口を知った。

 さっきわたしがしたことは偽善だったのか?
 手洗いはきちんとするようにしているが、爪の先端からはまだかすかに土の匂いがした。

 小鳥を埋めた時、わたしは特に深い考えを持たずにそれをしていたんだけど、今になって自分のとった行動をゆっくり振り返ってみると、せっかく温まった体の芯がすんと冷えていく感じがした。

 まず考えたのが、あそこで息絶えていた野生の生きものを別の場所に埋めてよかったのか?ということだった。
 たとえば、道の隅でひっそりと息絶えていたならば、この小鳥はここを選んだのだと考えることもできると思う。ここを選んだのだからここで眠らせておいてあげようという考え方もあるだろう。
 しかし、あの小鳥はそうではなかった。かなり血が出ていたので、たぶん事故で死んでしまったのだろうと思う。そのうえ踏みつぶされた跡があって、翼があらぬ方向に曲がっていた。あの小鳥はあそこを選んだわけではなかったし、何よりあれ以上踏まれるのがかわいそうだった。

 次に考えたのが、わたしはなぜあのような行動をとったのか?ということ。
 答えはシンプルで、小鳥がかわいそうだったからだ。それ以上の考えはなかった。鳥はもう死んでいたのだから何かの見返りを期待することもできないし、そもそも見返りを期待していては人ではないものに優しくすることはできない、と思う。
 誰かに良く思われたい、という心情も働いていなかった。むしろ空を飛んでいたときとはかけ離れた姿を見られたくないだろうと思って、小鳥を運ぶときは見られないように両手ですっぽりと覆うようにした。そもそも朝が早かったこともあって、わたしが小鳥を埋めたのを見ていた人はいなかったように思う。

 そして、わたしがしたことは「善」だったのか?と考え始めた。
 一般的に、誰かに優しくしたり、誰かを助けたりすることは「善」とされる。
 わたしの優しさはあのとき小鳥に向いていたけど、先ほども書いたように、もう息絶えているものに優しくする意味はあるのか?とふと思う。
 しかし、一般的に誰かのなきがらを傷つけることはよしとされない(むしろ倫理に反していると考えられる)。それは人間だけに適用されるルールではないはずで、わたしは小鳥のなきがらがこれ以上傷つけられるのに耐えられなかったのかもしれない、と気付いた。

 では、さっき聞こえた「偽善者」は何?
 まず「偽善」とは何か?おそらくそれは、言動が一見「善」のようでも、実際には中身が伴っていないー良心とかが伴っていない、というもののことであろうと思う。
 例えば飢えている人に食べ物を分け与えたとして、その動機がその人を助けたいという純粋な慈悲の心だった場合は「善」、周囲から心優しい人だと思われたいというある種よこしまな心だった場合は「偽善」となる、と理解している(多くの場合は)。

 しかし「善い行動」の動機は必ずしも目に見えるものではないはずだ。人の心の動きなんて外からは見えないし、その人が何を思って動いているかなんてことは憶測でしかない。
 というかそれを言ったら、何が「善」かは個人それぞれが尺度を持っていることだし、そもそも善悪なんてきっぱりと区別できるものではないはずだし……。
 なんだかみんな自分の思う「善」に他者を巻き込みすぎているような気がしてくる。

 だがそれをここで論じているとキリがないので……というか答えはいつまでも出ないように思うので……また「偽善」に話を戻す。

 ひとまず、わたし自身の行動について。わたしは良くも悪くも考えを持たずに行動したわけで、あったのは憐みの心情だけだ。だからとりあえずは、わたしの行動は「偽善」ではなさそうだ。

 では、なぜわたしは「偽善者」と言われることに怯えたのか?どこかから聞こえたということは、どこかでそれを恐れており、忌避しているということだろう。
 なぜか、と考えると、それは「自分の行動が本意とは違う、ネガティブな意味で捉えられることを望まないから」だろう。きわめて単純だが、それ以外理由が見当たらない。

 しかし、ここで疑問が湧く。
 そもそも「偽善者」はなぜ悪口たりえるのか?

 先ほども書いたように、一見「善い」行動に良心が伴っていなかったとして、それを判断するのは誰なのだろうか。まず心の動きなんて外からは見えないし、何をもって良心とするかは他者に判断されるべきことではないはずだ。

 よくこの文脈で引き合いに出されるのがボランティアの話だ。ボランティア活動に参加する人の中には、純粋に「誰かの役に立ちたい」という気持ちで動いているだけではなく「周囲から立派な人間だと思われたい」「自分の成長の機会にしたい」「就職活動のネタにしたい」とか、そういう「雑念」もないまぜにして動いている人もいるだろうと思う。
しかし、一般的には「偽善」とされるとしても、その行動は誰かの役に立っているのだ。「偽善」だと後ろ指を指すだけで何も行動を起こさない人よりもよほど人として正しいのではないか、それどころか「偽善者」というのは何も行動を起こさない自分を正当化するための言葉である気すらしてくる。「やらない善よりやる偽善」だと思う。

小鳥を埋めてから、わたしはいつも以上にきちんと手を洗った。優しさと衛生的であることはまったく別の話である。

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