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『グレイテスト・ショーマン』がどうしても気に食わない

 タイトルの通りである。

 実はわたしはかなりの映画好きで、過去には映画ライターみたいなお仕事を少しだけやらせていただいたこともあるくらいだ。ブルックリンみたいな服が好みだしクリステン・スチュアートのような大人になりたいし、好きな女優はルーニー・マーラだし、生まれ変わったらエズラ・ミラーになりたい。最近だと『パラサイト』より『スウィング・キッズ』が好みだった。グザヴィエ・ドランと今敏が好きで、マーク・ウェブと新海誠が苦手である。

 で、ここ数年で一番気に食わなかった、というかなんともいえない感情で劇場を後にした作品が『グレイテスト・ショーマン』なのである。

 もちろん俳優陣は本当に良かった。ゼンデイヤは生命力に満ちた女性を演じるのが本当に上手いし、ヒュー・ジャックマンがいかに優れた俳優かというのは言うまでもない。

 曲もものすごくよかった。映画館からの帰り道、悔しい、何かに負けている気がする、という謎の敗北感を胸にサントラをダウンロードしたのは良い思い出である。「This is me」が素晴らしいのはもちろん「Tightrope」の切なさ、健気さ、かわいらしさがたまらなかった。

 しかし、とにかく作品が気に食わなかったのである。

 以下は『グレイテスト・ショーマン』のネタバレである。
 これはショー・ビジネスの父とでもいうべき人物、P.T.バーナム(ヒュー・ジャックマン)の半生を描いた作品であり、周りの人々の人生を光に満ちたものに変えたバーナムは、その一方で彼自身も身近にいる大切な存在のかけがえのなさに気付かされながら、ショーの成功に向かってひたむきに歩む。

 そのなかでバーナムが出会うのが「フリーク」たちだ。
 生まれつき人と違う特徴を持ったがために、奇異の視線や差別に晒されてきた彼らをバーナムはショーのパフォーマーとして雇う。好奇の目に取り囲まれてきた彼らは突如として華やかなステージに立つようになったことに戸惑いながらも、自分たちの「人と違う」ところは「自分らしさ」なのだ、と気付いていき、逆境に負けない強さを手にする。

 …というような物語にしたかったのであろう。

 「This is me」のメインボーカルであり、素晴らしい歌声を持ちながら髭が生えているというだけで「フリーク」あつかいされていた女性、レティはバーナムに問う。「なぜ私なの?」。
 結局この問いがこの作品の核心になるべきだったのだ。

 「フリーク」はレティだけではない。「黒人」の空中ブランコのプレイヤー、アン。アンとともに空中ブランコをするW.D.ウィーラー、いわゆる小人症のトム将軍、いわゆる寄生性双生児のフランク、全身にタトゥーの入ったコンスタンティン王子などなど。

 しかし「個性豊か」な彼らのうち、きちんと名前で呼ばれていたのは何人だっただろうか?鑑賞後、我々がしっかりとその特徴ではなく、顔や名前を覚えていたのは何人だっただろうか?

 この作品の気に食わないところはそこである。
 「みんな違うってすばらしい!」そんなメッセージを込めたスーパーハッピーなミュージカル作品に見せかけておいて、バーナムも、作り手も「みんな」のことを考えていないのだ。

 バーナムは名声を手に入れるにしたがって「フリーク」たちの存在を疎ましく思うようになっていく。それにうすうす気づいていた「フリーク」たちであったが、それでもバーナムが落ち込んだ時には手を差し伸べ、彼の眼を覚まさせるのであった。
 最終的に彼らのことを仲間だと、居場所だと認めたかどうかは別としても「リーダー」だったバーナムは彼らのことを尊重しているようで、ただ利用しているにすぎなかったのだ。

 そして作り手たちは、なぜ一部の、物語において重要な役割を担う「フリーク」たちにしか作品内できちんと名前を与えなかったのか?レティやアン以外の「フリーク」たちは「その他大勢のサーカスの団員」「ミュージカルのプレイヤー」として消費される。「みんな違うってすばらしい」、その「みんな」とは誰のことなのか?「物語において重要である」という特性を持った「人と違う存在」しか「みんな」として認められないのか?

 結局この物語は、レティの「なぜ私なの」という問いに明確に答えていないのである。

 わたしはあくまで一鑑賞者にすぎない。確かにこれはエンタメ作品として素晴らしいと「ミュージカルファン」としてのわたしは感じた。しかし「女性」「障がい者」「セクシャルマイノリティ」そんないわゆる「弱者、少数者」としてのわたしは、この物語を飲み込むことができず、思わず「近年まれにみるクソ映画」とツイートしてしまった。

 マイノリティはマジョリティになにかを伝えるための「記号」ではないのだ。

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