個性1_3

いつか許せる日のために(1分で読める連載小説・2/8)

【前回のあらすじ】40年前に蒸発した義父が危篤状態であるとの連絡が入り、夫と義母があわてている。

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 私は何も聞えなかった振りをして、白いワイシャツとグレーのズボンを居間のソファーにそっと置く。

「あなた、ここに置きましたよ。とりあえず私も着替えてきますね。すぐに戻りますから待っていてください」

 そう声をかけると、夫は救われたような顔をして頷く。

 二階の自分の部屋に上がっても、親子の悲痛な怒鳴り合いは耳に入ってくる。

「だいたい私とあの人はもう離婚しているんだからそんな義務はないのよ」

「いいや、残念なことに、法律上はまだ夫婦のままなんだよ」

「どういうこと? 蒸発してから十年くらい経った頃に区役所へ行って相談をして、それから裁判所でちゃんと手続きをしてきましたよ」

「だからそれは失踪宣告と言ってね、七年以上行方が分からない人を死んだことにするための手続きでしかないの。離婚手続きとは別なんだってば」

 しばし沈黙が続いた後、夫の声が続く。

「それに親父の場合はね、年金をもらおうとした時に戸籍上死んでいることに気づいて、自分で失踪宣告を取り消しているから、名実ともに今でも生きていて、今でも母さんの夫なんだよ」

「そんな馬鹿な話がありますか!」

「母さんはあの時もそう言ったよ。区役所の人が電話をくれて、離婚手続きを勧めてくれた時。『今更そんな馬鹿な話がありますか。私達はとっくの昔に離婚していますから』と言い張って何もしなかったじゃないか。だから、今でも戸籍上二人は夫婦のままなんだよ。わかった?」

 また沈黙が訪れる。そしてそれから一呼吸おいて、義母の嗚咽する声と、居間のドアを勢いよく閉める音が聞こえてきた。

 私は身支度のピッチを速める。藤色のワンピースを着て白いレースのカーディガンをはおり、淡いピンクの口紅をさして居間に戻る。夫は既に着替えを済ませてサッシの外を眺めている。その目線の先にあるのは夏雲の浮かぶ空か、それとも、その空に向かって薄紅色の羽を広げる合歓の花か。

「お待たせしました」

と声をかけると

「ああ」

と頷いて

「行こうか」

と言った。

 私がパンプスに右足を置いたちょうどその時、パタパタと小刻みな足音を立てて義母が現れた。つばの広い帽子を被っている。義母は何も言わない。夫も何も聞かない。

 ドアを開けて三人で外に出る。初夏の日差しが目に痛い。今、私達の心を水浸しにしている戸惑いや怒りや悲しみを、どうか乾かして下さいと天に祈る。

(来週の土曜日に続く)

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昨年さいたま市のコンクールで入選した作品です。「さいたま市民文芸・第15号」というローカルな本にひっそりと掲載されています。さいたま市の職員の承諾をいただいて、こちらでも発表することにしました。8回で完結します。毎週土曜日にアップする予定です。固い内容です。マガジン(無料)では、これまでアップした全ての回をまとめてご覧になることができます。