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本当に「いじめ」や「パワハラ」や「暴力」を無くすために、まずその一歩目として選びたい考え方

いじめも、パワハラも、暴力も、
それをする側が「悪い」というわけじゃない。

勿論、される側だって「悪い」はずがない。

どちらも、良いも悪いも無い。
違う生き物だっていうだけなんだ。





「加害者」「被害者」という、対立の構造ではないんです。

そして、どちらかが悪いから、
どちらかを(特に加害者側を)消そうっていうのは、
それは結局のところ、
別の争いの火種を生み出すことにしかならないと思うのです。

「加害者」も「被害者」も、どちらもあり、
様々な立場が沢山合わさって、
「社会」は成り立っているというただそれだけのことです。



「加害者が悪い」「被害者はかわいそう」ではなく・・・・
まぁ、その場面だけを切り取って見れば、
そう見えるかもしれませんけれども、
本質は、それらは全部、「ひとつ」。

営みの一部でしかないんじゃないかと思います。






今、こうした問題を語る時って、
被害者からすれば「加害者が悪い」となり、
でも加害者からすれば「被害者が悪い」となる構図が多いように思います。

さらに、一般論的に言えば、関係ない第三者も、
こういうのは「加害者が悪い」と考えがち。
かと思いきや、被害者側に、
「あなたにも落ち度はあったんじゃないの?」という、
きつい言葉をかける人もいます。


結局、そうやって、人と人の関係性を2つの対立する状態に分けて、
「どっちが悪いのか」っていうことばかり、
フォーカスしてしまっているような状況に感じます。

でも、それって、上手くは絶対にいかないんですよね。




実際のところ、例えばいじめで言えば、
「いじめる側にもいじめる理由がある」っていうのは、
それはその通りなわけです。

家庭環境が悪くてストレスが溜まっていたりだとか、
相手がムカつくからいじめたくなっただとか、
そもそも暴力的性質の強い人間だったとか・・・・

その理由を、被害者側が受け入れられるかどうかは別として、
「理由」は、あるんです。

だから、それを否定してしまったら、
結局のところ、今度はその「加害者」が、
「否定されたことによる被害者」になってしまうだけ。
対立構造の連鎖が生まれるだけの話。

というかもしかしたら、学校でいじめをする「加害者」は、
家では親の虐待を受けている「被害者」になっているかもしれません。

人間の立場なんて、環境が変わればいくらでも変わるものです。




また、「いじめられる側にも問題はある」というのは、
それそのものは事実であると、僕は思います。
(だからいじめられても仕方ないとかいう意味じゃなく。
単純な因果関係の話です)

いじめられる人と、いじめられない人がいるのなら、
「いじめられる理由」は必ずあります。

本人の落ち度じゃない場合もありますし、
本人の落ち度であることだってあるでしょう。

「ムカつく顔してたから」とか言われても、
それは落ち度ではありません。
一方で、「悪口言ってきたからこらしめてやった」みたいな、
そういう加害者側の言い分を聞くこともありますが、
それはもしかしたら、「落ち度」かもしれません。


繰り返しになりますが、それを「悪い」と言いたいのではなく、
因果関係を見ていけば、被害者側にも、
「いじめられることを避けられたかもしれない道」
はあったと思う、というだけです。

でも、結果的にそれができなかったことを、
責める気は少しもありません。



ちょっと、形はそう単純じゃないけれども、
「肉食動物」と「草食動物」の関係性に、似ています。
「いじめる人」と「いじめられる人」。

これだって、「肉食動物が悪い」わけじゃないんです。
だって彼らは彼らで、生きるためにやっているだけのこと。

かといって「草食動物」が悪いわけでもありません。
当然のことです。


でも、じゃあ、
「草食動物がかわいそうだから肉食動物は肉を食べるな!」
となったら、生物界の未来はどうなるのかと考えてみると・・・・

バランスぐちゃぐちゃになることなんか、目に見えています。

それについては、面白い記事を見つけたから、こちらへ。
 
捕食者がいなくなると、生態系は地獄絵に
https://toyokeizai.net/articles/-/43220


いじめが、セクハラが、パワハラが、
そういった「加害行動」が、
それをする人間自体を「悪い」と捉え、罰していってしまったら・・・・

その向こう側には、
「いじめる人間がいない平和で幸せな環境」
が待っているかというと、そういうことでは、きっとないのです。




かといって、こういうものを仕方ないと、
見過ごそうっていうわけじゃないのです。


僕が言いたいのは、ただ一点。

「良い悪い」という二者対立の図式で見るのをやめよう、ということだけ。


いじめも、セクハラも、パワハラも、
「なくす方法」は、きっとあるのです。
でもそれは、「良い悪い」という単純な基準で判断して、
どちらか一方を無くそうと考えている限りは、決して辿り着けない場所。

多分ヒントは、上に書いたような、生態系のバランスにあります。


でも、「肉食と草食の関係」と、人間同士の関係が違うのは・・・・
言うなれば人間は、「食性を変えることができる」ということ。

肉食動物は草食動物を食べることを止めたら死んでしまいますが、
もし「雑食」に変えることができれば、食われる草食動物は減ります。
その上で、元肉食動物たちも、生きていくことができます。

人間関係は、そういうことができる、ということです。



それに・・・・

昔何かの本で読んだんですが、いじめっこや不良たちに、
「いじめ」以外にエネルギーを発散させられる場を与えると、
結果的に「いじめ」をしなくなる、というケースもあるそうです。

それこそ、不良やヤンキーが甲子園目指す漫画とか、
ストーリーの最初の方でそういう展開ありますよね笑




そして、「草食動物」・・・・
ここでいう「被害者」側の人たちにも、
できることはあるはずです。

それこそ、「逃げる方法」を、
もっとちゃんと教育したらいいんじゃないかと思います。

草食動物は、肉食動物に狙われたら一生懸命に逃げます。
それこそ、草食動物の方が、多種多様な手段を用いて、
捕食者を攪乱したりするわけですよ。


いじめにあったらこういうふうに逃げよう。
いじめられそうになったらこうして回避しよう。

そんなふうに、「いじめからの生存戦略」を、
もう少し真面目に、みんなして考えたらいいのです。

そういう考えがちゃんと今普及しきっていないのは、
「いじめそのものが悪いから無くすべき」
っていう極端な考え方が、
日本の社会や教育の根底にあるからなんじゃないかなぁ・・・・

「いじめは発生しうるもの」と認めた上で、
そこから逃れる方法や、
もしくは立ち向かう方法にフォーカスを当てた方が、
よっぽど建設的だし、現実的なんじゃないかと思います。




いじめる側も、いじめられる側も、
どちらのことも否定しないで、
「いじめ」自体がなるべく起きないようにすることは、
きっとできるはずなのです。

それはまず、「認める」ところから始まるんじゃないでしょうか。


いじめる側にも理由はあり、いじめられる側にも原因はあり、
しかしどちらが悪いわけでもないから、
じゃあ、どうしたらいいのかなって、考える。

ちゃんとその理由や原因を見て、
どこでその関係性のバランスを取れるのか、考える。

それが始まり。



時にいじめる側に回ってしまう人も、
よくいじめられる側になってしまう人も、
どちらも幸せに暮らしていけるような環境を作ること。

言うほど容易くはないとは思います。

しかし少なくとも、対立構造を作って、
どちらかを悪者にしているうちは、
絶対に作ることのできない未来だと思うので・・・・

僕は、まず、どちらかを悪者にしないところから、
始めたいと思います。
 
 
 
(なお、これができるのは多分、
「当事者」じゃない人たちに限られます。
草食動物だって、今まさに食われそうになった時に、
その身を差し出すことはできませんし。
 
いじめの当事者は、加害者も被害者も、
こうして全体性を見て、俯瞰で捉えることは難しいと思います。
それは仕方ない。
けれどもだからこそ、第三者くらいは、
この立場を見失わないようにしないとな、と思うのです。)



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