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それでも「日常」がある

また、しばらくぶりのnoteになってしまった。昨年10月から今年の1月までは、こつこつ書いて3ヶ月で11万字書いたのに。

授業が終わり、2月に入ってからは、ずっと研究関係の物書きをしていた。日記やエッセイは、書けばなんでもネタになるし、時間をかけるほどに字数も簡単に増えていくが、やはり、(僕にとって)学術執筆は、そうもいかない。4000字書くのに1週間かかったりする。もっとかかることもある。信憑性・妥当性・正確性を自分が判断するための調べ物、字数制限がある中で表現方法の模索などに時間がかかる。3月に入ってからは、2学年に渡る元ラボメン2人の卒論を合わせた内容の論文を書き始めた。久々に(英語で)論文を書くことになり、英文作出能力が回復するのに時間がかかった。鹿児島に移って、学生さんと一緒に研究をはじめ、その興味関心に合わせ研究内容の幅を少しずつ広げているので、イントロを書くための思考の整理、先行研究の調べ物にも時間がかかったが、とても勉強になった。

鹿児島に移ってからは、大学教員という仕事に慣れ、授業の準備をして、研究費を集めながら機材などを揃えるので、恥ずかしながら手一杯だった。その間、成り行き上、書くことになった日本語論文は書いたが、なかなか原著論文を出せていなかった。

3月の研究プロジェクトの物書きが終わり(共同研究者と怒涛の執筆の日々だった)、一息ついた。新年度のことを考えても、これまでほど必要な準備はなく、「論文が書けるな」と思った。実際、すでにその論文は半分書いた。研究を進める作業も、ルーティン・サイクルに組み込むことが出来そうだし、研究者として、やっとあるべき姿になれそうな気がした。

街を歩けば、ふとした風景が好きだし、馴染みのお店も人も増えた。幸せなことだと思った。


イレギュラーが無い年なんてなかった

そんな風に思っていたのも束の間で、世間は、あっという間にコロナ禍に飲み込まれてしまった。2月から3月頭にかけては「大変なことだが、4月下旬に概ね国内は封じ込められるのではないか?」と思っていた。

しかし、怒涛の研究pj関連執筆が3月中旬に終わって、日々の中でコロナ関連の情報を調べるようになり「これは、1-2ヶ月で済む問題ではない」と、直観した。もちろん、僕はウィルスや感染症の専門家ではないから、独自の解析などは出来ない。しかし、それなりの年月を生物学研究に身を投じてきた経験による直観として、感染者数の増加曲線の挙動、世界の情勢、これらに、楽観できる要因がないと気付く。

新学期は「普通に授業は出来ないだろうな」と思った。

SNSのタイムラインの動きは、少し、2011年の3月に似ている。あの時は、博士2年だった。4月になり、博士課程最終学年になった。故郷は宮城なので、いろいろ心配だった。しかし、博士論文があったので、ボランティアなどには行かず、妹に炊き出しや援助活動の情報を東京から調べてメールしていた。その情報を、自分のブログに日々まとめて発信もした。確か、日に1万とか2万のアクセスがあるようになり、その過程で、SNSで広がった古い情報、間違った情報が、いつまでも広がり続ける様も、実感したのだった。今は、SNS各社があの時の教訓を活かし、情報の確度を上げるべく工夫はされていて、世界はそれなりにアップデートされるんだな、とは思う。

同じなのは、日々、いつでも、渦中の「このこと」で、頭が支配されることだ。切り替えて、日々の仕事、やるべきことをしようとしても、どうにも、切り替えが効かない。

昨年度は、大学での学務がいくつか煩雑なものに当たっており、手際良くはやったが、それでもだいぶ時間を費やした。幸運にも、年度末の業務や、令和2年度の業務は、あまり重いものが割り当てられなかった。今年度は「かなり研究ができるな」、そう思っていた。

しかし、いま、目下の課題は「授業をどうするか」だ。通常の対面授業は、鹿児島であっても、出来まい。おそらく、この数日から来週にかけて、各地方でもそれなりの数の、感染者増加がみられるだろう。そうとしか、思えない。となれば、授業のオンライン対応をする必要がある。いまは、そのことで頭がいっぱいだ。周りの同僚や、管理職の人たちも頭を悩ませている。とりまとめと実行は、困難を極めるが、僕は、嫌われても、安全側の対応を主張するつもりだ。方法論も、僕のスキルでできる範囲の策は、すでに頭の中にある。

とはいえ、みんなの考え、その取りまとめ、意見の集約、周知、行動変容。それらが、各組織で、うまくできるだろうか。悲観的な観測がないとは、言えない。むしろ、今の僕は悲観的に思っているのかもしれない。僕自身、よくわからなくなる。



それでも僕たちには「日常」がある

「鹿児島でも、買い物したり、飲み食いしたり、普通にできるのもあと数週間かもしれないな」、そんな風に思い、ここ最近は、街をなるべく歩いている。

こんなときでも、春の訪れは、必ずある。


馴染みのお店で、知人スタッフとお話をしたりする。


こんな折だが、15年の歴史に幕を閉じた施設もある。


行けるうちに、贔屓にしたいお店を、応援したい。店内で食べるのはひかえても、テイクアウトと言う手もあるだろう。


大学人の端くれとして、学生の学びも守り、街も守るための取り組みをしよう。それが、失ってはならない「大学人の良心」だ。書類上の体裁や、めんどくささの回避を優先すれば、もっとめんどくさいことにも繋がるだろう。


鹿児島でも、自粛の波は近づきつつある。


さらにそれでも、思う。日常を暮らそう。


僕たちの生活は、今後、おそらく結構な期間、制限される。今まで通りのライフスタイルではなくなる。スタイルを変えるのが困難か否かの問題ではない。変わるしか、選択肢はない。

それでもなお、僕らには日常があるだろう。季節が巡るのと同様、時間はすぎるのと同様、どんなカタチであれ、「日常」がある。いつまでが《日常》で、どこからが《非日常》であったか。後から振り返っても、境界は不鮮明だろう。いつもそのようにして、時代は変わったはずだ。

どのような年度となるのであれ、僕は、授業をして、研究をして、論文を書いて、家族や友人たちと、何かを通じて、日々をすごそうと思っている。


どんな状況であれ、何かを作り、残し、繋げる

おそらく、それだけのことなのだと思う。平時であれ、非常時であれ。

いま、僕には、やりたいことがたくさんある。

例えば、このnoteも、マガジンとして分けて整理したい。ただの日記風のエッセイ、鹿児島という街に特化した話、研究に特化した話として、いくつかにジャンルを分けて、アーカイブをしたいと思っている。

研究に関しては、いま、実験室の初期セットアップの最終段階だ(実は)。しばらくは、それなりに世界に研究を発信できる体制になるだろう。最先端の進展の速度は凄まじく、とてもキャッチアップできないが、それでも、僕の研究人生の中では、必要なものが最も揃っている状態となる。

トップジャーナルに載るような大きな研究は、実力的にも、性格的にも、出来ない気がするが、地味でコンパクトな論文を、コンスタントに出す自信はある。自分のスモールサイエンスが、オリジナルで楽しくあること。それを、失わないこと。


どんなときであれ、大切な人と過ごす時間を持とう。このような渦中であれ、平時であれ、おざなりにしてきた時間というものは、いつだって、多かったはずだ。裏を返せば、いつだって、本当は大切に過ごせたはずだ。



今日は、最近できたパン屋さんに行ってみようと、ゆとりさんと出かけた。結局、完売でお店はしまっていた。さすが、人気!


さらに足を伸ばして、コッペパン屋さんにも行ったが、そちらももう閉店(以前通りかかった日のインスタ↓)。


しかたがないので、そのままお散歩に。

川沿いをランニングしている他学部の先生と出会って、ご挨拶をした。甲突川沿には、公園がたくさんあって、遊具などもある。3年半住んで初めて、鉄棒などで遊んでみた。ゆとりさんは、逆上がりが出来なくなっていらっしゃった。僕は、やってみたら出来た。肩が上がらなくなってきた昨今だが、ぶら下がっていたら、なんだか良くなった。

ゆとりさんは、今後、公園で鉄棒をするのだそう。知人に「(退職後)最近は何してるの?」と聞かれたら「鉄棒」と答えるとのこと。


公園を進み、サニーデイズコーヒーさんへ(上の写真は以前行った際のもの)。店主はご夫婦揃ってマスク。コーヒーとお菓子をテイクアウトした。旦那様は写真家でもいらっしゃるのだが、前にきた時は、腕を怪我されていた。今日は、腕も動かして、焙煎中だった。鹿児島は、深入りが多いのだが、ここはたぶん、浅煎りなんじゃないかなと思う。コーヒーは、酸味が無い方が好きだと、自分では思っていた。しかし、こちらのコーヒーは、むしろ酸味が好きになれる。

晴れてる日に、また行こう。


帰宅後、コーヒーとお菓子。共同研究者が、遠隔授業の練習なのか、「Discordを使って、音楽と言語・右脳と左脳に関する論文のジャーナルクラブ(他者の論文の内容を解説する発表会)をする」というので、参加。さくっと小一時間、議論を楽しんだ。

そのあと、お風呂に入って、聖☆おにいさんの録画を見ながら、晩ご飯を頂く。

そんな、土曜日。日常。



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