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【全文和訳】米カールソン氏による露プーチン大統領のインタビュー 1/2(前半71分まで、ロシア語からの手動翻訳)

写真:ロシア大統領公式サイトより
見出し参照:タッカー・カールソン氏HP


【導入】

<本文表記>
プ:プーチン大統領
カ:カールソン記者

カ: 大統領閣下、今回はどうもありがとうございます。2022年2月24日、ウクライナでの紛争が始まった時、貴方は自国民に呼びかけました。その時仰った内容に、行動を起こすのはNATOの支援で米国が突如攻撃を仕掛ける可能性があるという結論に達したためだ、というものがありました。米国民にとって、これはパラノイアのように映ります。なぜ貴方は、米国がロシアに突如攻撃を行うかもしれないと考えているのですか?そのような考えに至った経緯とは?

プ: 米国がロシアに突如攻撃を仕掛けようとしていたわけではありません。そのようなことは私は述べていません。いま、貴方とご一緒しているのは、トークショーですか?それとも真面目な話ですか?

カ: 素晴らしい引用句をありがとうございます。今は真面目な話をしています。

【ロシアとウクライナの歴史】

プ: 貴方には歴史の素養があると思われますが、その理解で宜しいですか?

カ: ええ。

プ: では、ほんの30秒または1分位で歴史的背景をお伝えさせてください。異議がなければ。

カ: もちろんです。お願いします。

プ:それでは、まずは、我が国とウクライナとの関係が何から始まり、ウクライナがどこから発生したのかについて。ロシアという国家は、中央集権国家として形成され始めました。ロシアの国家設立年である862年のことです。(ロシア北西部にノヴゴロドという都市があり、そこの)ノヴゴロド人がスカンジナビア半島にいたワリャーク人たちの公国からリューリク公を招聘したのが、この862年のことでした。(ちなみに)1862年にはロシアは建国1000周年を迎えました。ノヴゴロド市にはこの周年記念日を讃える記念像があります。

882年、リューリク公の後継者であるオレグ公はキエフにやって来ました。このオレグ公はリューリク公死去後にその幼い息子の摂政を実質的に務めていた人物です。やがて、かつてリューリク公の親兵だった2人の兄弟を退けました。このようにしてロシアは、キエフとノヴゴロドという2つの中心部を擁して、発展していくこととなりました。

次にロシア史で非常に重要な年号とされているのは、988年です。この年、リューリク公の曾孫であるウラジーミル公が「ルーシの洗礼」を行い、東方教会である正教を受け入れました。それ以来、ロシアは中央集権国家として強化されていきました。何故か?単一の領土、単一の経営関係、単独言語、そしてルーシ洗礼後は単一の宗教と、公た束ねる単一の政府となり、中央集権的なロシアという国家が形成されるようになったからです。

ですが、古い昔の中世時代、ヤロスラフ賢公による王位継承後、様々な要因があり、彼が死去した後、継承問題は複雑になりました。父から長男に直接継がれるのではなく、故公の兄弟に継がれ、その後は様々な系列の息子たちへと継承されていきました。それは、単一国家として形成されようとしていたルーシの分解を引き起こすものでした。とは言え、ロシア国家の分解は特に際立った事象でもありません。同じことはヨーロッパでも起きていたのですから。

しかしながら、ロシア国家の分解は、ある時チンギス汗が打ち立てた帝国にとっては容易く得られる戦利品となりました。彼の後継者であるバトゥ汗はルーシにやって来て、ほぼ全ての都市を強奪し、破壊しました。ちなみにキエフが位置していた南部においては幾つかの都市が独立性を失ってしまったものの、北部の都市では主権の一部を堅持していました。汗国に貢税を納めていましたが、一部の主権は維持していました。その後、モスクワを首都とする単一ロシア国家としての形成が始まりました。

キエフを含むロシア南部領土はやがて、他のいわゆる「磁石」、すなわちヨーロッパで形成されつつあった中心部へと徐々に引き寄せられるようになりました。これが、リトアニア大公国です。人口の多くをロシア人が占めていたために、「リトアニア・ロシア公国」と呼ばれることさえもありました。彼らは古代ロシア語を話す正教徒でした。その後、リトアニア公国とポーランド王国が統合されました。数年後には宗教分野での統合も行われ、正教聖職者たちの一部がローマ教会に所属することになりました。このようにして、これらの土地はポーランド・リトアニア国家の中に組み込まれました。

ですが、ポーランド人は数十年にわたり、これらの人々のポーランド化に努めました。つまり、ポーランド語を導入したり、辺境に(=クライ)住んでいる彼らはもはやロシア人ではなく、ウクライナの人であるという考えを吹き込んだりしました。この「ウクライナ人」という言葉は当初、「国の辺境に(ウクライ)住む人」もしくは「国境警備に従事する人」を意味していました。何らかの個別の民族的集団を指す語ではありませんでした。

ポーランド人はこのようにあらゆる方法でポーランド化を進め、ロシア人の土地に対し、残酷と言わないまでも、かなり厳格な対応を取っていました。そのため、このロシア人の土地の一部では自らの権利を求めて闘うようになりました。ワルシャワに宛てた書簡で、権利の遵守を求め、キエフを含めたこれらの土地に派遣してもらえるように…

カ: それはいつの出来事ですか?何年頃のことですか?

プ: 13世紀のことです。その後のことをお話していきますが、混乱しないように年号もお伝えしますね。

1654年あるいは少し前に遡りますが、これらのロシアの土地で権力を握っていた人々は、繰り返しになりますが、ワルシャワに対し、ロシア出自の正教徒派遣してくれるように求めていました。この要求にワルシャワ側が何も答えず、実質的にそれを退ける形となったとき、これらの人々は今度はモスクワ川に訴えるようになりました。モスクワの方で彼らを引き取ってくれるように求め始めたのです。

私が何らかの捏造をしていると貴方に思われないために、この文書をお渡しします…

カ: 貴方が捏造しているとは、私は考えていませんよ。

プ: それでも、どうぞ。これは公文書館から写した文書で、ボグダン・フメリニツキーの書簡です。フメリニツキーとは、このロシア人の土地、つまり今私たちがウクライナと呼んでいるこれらの土地において、権力を握っていた人物です。彼はワルシャワ側に宛てた書簡の中で自分たちの権利を守るよう要求を記しており、それが拒否された後は、モスクワ側に対してそのモスクワ皇帝(ツァーリ)の強力な保護下に入れてもらえるよう嘆願の書簡を書くようになりました。この(ファイルの)中に、これらの文書の写しが入っています。良い記念として、貴方にお渡しします。ロシア語で翻訳されているので、後はご自身たちで英語に翻訳ください。

ロシアでは、彼らの受け入れをすぐに同意したわけではありませんでした。ポーランドとの戦争が始まる懸念があったからです。それでも1654年の(古代ロシア国家の権力代表機関である)国民会議によって、この古代ロシアの土地がモスクワ帝国の中に入ることが決まりました。

そして想定通り、ポーランドとの戦争が始まりました。戦争は13年続き、休戦条約が締結されました。この1654年の取決締結よりおそらく32年後くらいだったと思いますが、ポーランドとのいわゆる「恒久和平」が締結されました。そしてこれらの土地のうち、キエフを含むドニエプル左岸の全てはロシアに所属するものとなり、ドニエプル右岸の全てはポーランド所属のままとなりました。

後のエカテリーナ2世の時代、ロシアはこれらの歴史的な土地の全て、南部も西部も含めた全てを取り戻しました。この状態は革命勃発まで続きました。第一次世界大戦の前には、オーストリア参謀本部がウクライナ化の思想を利用し、これを非常に活発に推し進めました。何のためにそれが必要だったのかは明らかです。大戦を目前にて潜在的な敵の力を弱体化させたい、国境地帯で自国に有利な条件を作り出したいという意図があったためです。かつてポーランドで生まれたこの思想、すなわち、この領土に居住する人々はロシア人などではなく特別な民族集団であるウクライナ人であるという思想が、オーストリア参謀本部によって推進され始めました。

ウクライナ独立を唱える理論家たちも19世紀には現れました。彼らはウクライナ独立の不可欠性を説いていました。だが、これらウクライナ独立の「大立者」たちはみな、ロシアとは良好な関係であるべきと主張していました。しかしながら1917年の革命後には、ボリシェヴィキは国家体制を復活させようとし、ポーランドと(の戦争)を含む内戦が勃発しました。ポーランドとの和平が結ばれたのは1921年で、この取決によって、ドニエプル右岸の西部は再びポーランドのものとなりました。

そして1939年、ヒトラーと組んだポーランドは・・・そうです、ポーランドはヒトラーに協力していました。我々の公文書館にも証明する文書が残されているのですが、ヒトラーはポーランドに対し、和平を結び、友好協力条約を交わす提案を行い、ドイツの主要部分とケーニヒスベルク、東プロイセンを結ぶいわゆるポーランド(ダンツィヒ)回廊をドイツに返還することを要求していました。第一次世界大戦後、この領土はポーランドに戻され、ダンツィヒの代わりにグダンスクという街が誕生していました。ヒトラーはこれらの土地の平和的な返還を求めましたが、ポーランド人は拒みました。しかしそれでもヒトラーとは協力し、チェコスロバキアの分割に共に関与しました。

カ:お尋ねしてもよろしいですか?貴方は、ウクライナの一部が実際は数百年にわたりロシアの土地であったことを仰っています。では何故、貴方が24年前に大統領に就任した時、これらの土地をただ単に取り戻さなかったのですか?軍事力もあったでしょうし。何故これほどにも長い間待っていたのですか?

プ:(そのことについては)今からお話します。この歴史的なブリーフィングは間もなく終えます。ブリーフィングは退屈かもしれませんが、多くを説明してくれる内容です。

カ: 退屈なものではありませんよ。

プ:それは良かった。そのように捉えてくださり、嬉しいです。どうもありがとう。それでは進んで、第二次世界大戦前、ドイツと協力する一方で、ヒトラーの要求を拒否したものの、チェコスロバキアの分割には関わり、他方ではポーランド回廊を返還しなかったポーランドはやり過ぎて、ヒトラーが第二次世界大戦でまさにポーランドに対し火蓋を切るよう仕向けたのです。ポーランドとの戦争は何故、1939年9月1日に始まったのか?ポーランドとは話が付けられなかったからです。

ヒトラーには、自身の計画実現をポーランドから開始するしか策が残されていませんでした。

ちなみにソ連邦はと言えば、私は公文書館の関連文書を読んだのですが、きわめて誠実な行動に終始していました。ソ連もまたポーランドに対し、チェコスロバキア支援のための自軍展開の許可を求めていたのですが、当時のポーランド外相の言葉によると、ソ連の航空機がチェコスロバキア方面に向かってポーランド領空を通過するのであれば、その領内で撃墜すると語っていたそうです。でも、これは重要ではありません。重要なのは、戦争が勃発した今となっては、ポーランド自らが、チェコスロバキアに対して行っていた政策の犠牲者となったという点です。何故なら、有名なモロトフ=リベントロップ協定によって、これらの領土の一部はウクライナ西部を含めてロシア領となっていたからです。ソ連という名のロシアは、このようにして歴史的領土を取り戻したのでした。

「大祖国戦争」あるいは通称「第二次世界大戦」で勝利を収めた後、これらの土地は最終的にロシア、ソ連のものとして固定されました。一方のポーランドは代償という形で、西部の土地、ゲルマン人古来の土地であるドイツ東部の地を受け取りました。これは現在のポーランド西部に相当します。結果、ポーランドは当然ながらバルト海へのアクセスを取り戻し、ダンツィヒも取り戻してその名称をポーランド語風に改名しました。

ソ連が形成されていた際、(これは少し戻って)1922年のことになります。ボリシェヴィキはその形成を始め、それまで存在していなかったソヴィエトウクライナを設立しました。

カ: その通りですね。

プ: しかもこの時スターリンは、誕生したこれらの共和国が自治形態を取ることを主張していたのですが、ソ連建国者のレーニンはどういう訳か、これらの共和国がソ連から脱退する権利を得るよう主張していました。そして更にどういう訳か、形成されたソヴィエトウクライナに、土地やその居住者を移譲しました。これらの土地はこれまで一度もウクライナと呼ばれたことはなかったにもかかわらず、何故かその形成時において鋳型にはめられたかのようにウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の編成に組み込まれていきました。その中には、エカテリーナ2世の時代に獲得した黒海沿岸地域で、ウクライナとは歴史上何の関わりもない地域も含まれていました。

歴史を1654年まで戻し、これらの土地がロシア帝国の下に戻った時分を振り返っても、そこでは現在のウクライナの3-4州に相当する地域が対象となっていて、黒海沿岸地域は対象から完全に外れていました。話にもされていませんでした。

カ: 1654年のことですか?

プ: ええ、そうです。

カ: 貴方のご博識は辞典並みですね。ですが、大統領就任中の22年間、何故そのことをお話にならなかったのですか?

プ: ソヴィエトウクライナは、黒海沿岸地域などこれまで全く関わりのなかった広大な土地を手に入れました。これらの土地は、かつてロシアが露土戦争の結果獲得したもので、ノヴォロシア(新ロシア)と呼ばれていたものです。でもこれは重要ではありません。重要なのは、ソ連創始者のレーニンが、ウクライナをまさにこのような形で作り上げたという点です。そしてその後数十年にわたり、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国はソ連邦の中で発展していき、ボリシェヴィキもまたどういう訳かウクライナ化に従事してきました。ソ連邦指導者層にウクライナ出身者がいたという理由だけではなく、「コレニザーツィヤ(土着化)」と呼ばれた政策もあったのです。この政策は、ウクライナや他の連邦共和国に関するものでした。民族語や民族文化を導入する内容で、概して見れば、もちろん良い政策です。ですが、そのような形でソヴィエトウクライナが形成されていったのです。

第二次世界大戦後、ウクライナは、戦前のポーランド領の一部(現在のウクライナ西部)のみならず、ハンガリーやルーマニアの領土の一部も受け取りました。

ルーマニアとハンガリーにとっては領土の一部を割譲されてしまい、それらがソヴィエトウクライナの所属となり、今もなおウクライナ領となっています。

そのため我々にとっては、ウクライナがスターリンの意志によって作られた人工的な国家であると述べる根拠があるのです。

カ: では、ハンガリーには自分の土地を取り戻す権利があるとお考えですか?他の民族もその土地を取り戻して、あるいはウクライナに返す、1654年時点の国境に戻すことはあり得ますか?

プ: 1654年当時の国境線のことは自分にはわかりません。スターリンが統治していた時期のスターリン体制下では、多くの人権侵害や他国家の権利侵害があったと皆口を揃えています。この点において、当然ながら、自分たちの土地を取り戻すという権利はあり得るのかもしれません…

カ: 貴方はオルバン氏とそのことについて話しましたか?つまり、彼がウクライナ領の一部を取り戻せることについて?

プ: 一度も話したことはありません。一度たりとも。この点に関する話は両者の間では一度もされたことがありません。ですが、私が確実に把握している内容として、あちらに居住しているハンガリー人は当然ながら自分たちの歴史的祖国に戻るのを望んでいるということです。

更に申し上げるならば、個人的な話で少々脱線しますが、大変興味深いものです。私は80年代前半に当時のレニングラード(現ペテルブルク)から車でソ連内を回る旅行に出発し、キエフも経由しました。キエフに入り、ウクライナ西部に抜けました。ベレゴヴォという都市にも立ち寄りました。これらの街の土地表記は、ロシア語と、自分にはわからないハンガリー語による表記でした。ウクライナ語表記ではなく、ロシア語とハンガリー語によるものでした。

どこかの村の中を移動していていた時、家屋の傍に黒い3点スーツを纏いシルクハットを被った男性たちが座っていました。私が「あの人たちは誰?俳優?」と尋ねると、「俳優ではない、ハンガリー人だ」との答え。さらに私が「彼らはここで何をしているのか」と聞くと、「何をしているかって?だってここは彼らの土地だから、こうして住んでいるんだ」と教えられました。ソ連時代の80年代初めのことでした。彼らはハンガリー語やその名称、民族衣装を受け継ぎ守り、自らをハンガリー人であると自覚していました。そしてもちろん、今ではこれが侵害されていて…

カ: そうですね、そのようなことは多くあると思います。20世紀やそれ以前に生じた国境線の変更には多くの国が当然ながら不満を抱いていることでしょう。ですが貴方は、2022年2月まではそのようなことを言明してきませんでした。NATOからの核を含む実際的な脅威を感じていると述べ、これが貴方を行動に踏み切らせた、と。私の理解は正しいでしょうか?

プ: 私の長いお話はインタビューの範疇に入らないであろうことは理解しています。故に冒頭で、これは真面目な話なのかショー(番組)なのかを尋ねたのですよ。ですので、気を悪くしないでください。

話は、ソヴィエトウクライナの設立時点で中断していました。その先、1991年にはソ連邦が崩壊しました。そしてウクライナは、ロシアからの「寛大な措置」で貰ったものの全てをこっそり持ち去ってしまいました。

ここで、今日において非常に重要な点に触れましょう。ソ連の崩壊は、実際のところ、ロシアの指導部によって引き起こされたものでした。当時ロシア指導部が何を基準として行動していたのかわかりませんが、全て上手くいくと考えるだけの理由が幾つかあったのではと思います。

第一に、ロシア指導部はロシア・ウクライナ関係の堅牢な基盤に立脚していたという点です。あちらでは事実上の共通言語として9割以上がロシア語で話し、親戚関係もあり、3人に1人の割合で何らかの親戚や友好的な人間関係がありました。文化も歴史も、更には宗教も共通でした。そして数百年にわたり一つの統一国家の下で一緒に存在していました。また経済的な相互関係も強固で、これらは全て(関係の)堅牢性を示すものです。これらは全て、我々の善隣関係の必然性に基づいています。

【NATOの拡大】

第二の点も非常に重要で、米国民である貴方や、貴方の視聴者たちにもぜひ聴いてもらいたいことです。前のロシア指導部はソ連がその存在を終え、イデオロギー的なものを分割する境界はもう何も存在しないという認識に基づいていました。ロシアは自発的かつ積極的にソ連の崩壊という道にさえも進んだのです。このことがいわゆる「文明的な西側」には協力と同盟関係への提案として理解してもらえるという考えがあってのことでした。そんなことをロシアは米国や、いわゆる集団的西側諸国に期待していたのでした。

中には賢明な人もいました。例えばドイツ社会民主党のエゴン・バールという大物政治家です。彼は、ソ連崩壊前にソビエト政権指導部と個人的に話した際、ヨーロッパで新たな安全保障体制を築くべきだと主張しました。ドイツの統一を支援すべきであり、新しい安全保障体制には、米国、カナダ、ロシア、ならびに他の中欧国家が加盟するべきだ、と。しかしその上で、NATOは拡大してはならないとも言っていました。彼の言葉は次のようなものでした。「もしNATOが拡大すれば、全てが『冷戦』と同じ状況になってしまう。しかも、ロシアの国境に更に接近するだけだ。」

賢い老人でしたが、誰も彼の言葉を聞き入れませんでした。それどころか、彼は怒りさえも露わにしました。そのことについても公文書館の保存文書で明らかにされていて、それによると、次のような会話がありました。「もし貴方たちが私の言い分を聞かないのであれば、私はもうモスクワには決して来るものか」。彼はソ連指導部に立腹しました。彼は正しかったのです。全てが彼の言うとおりに起きてしまったのですから。

カ: そうですね、確かに彼の言葉通りになりました。貴方は何度もそのことに言及されていますし、私にはこれは全く正当だと思えます。多くの米国人も、ソ連崩壊後のロシアとの両国関係は正常化すると考えていました。しかし、その逆のことが起きてしまいました。そして、何故それが起きてしまったのかという理由については、貴方は確か一度もお話されていないと思います。ええ、もしかすると、西側諸国は強いロシアを恐れている(ため)かもしれません。ただし、強い中国のことは恐れていないのに。

プ: 西側諸国は強い中国を強いロシア以上に恐れいています。何故なら、ロシアの人口1億5千万人に対して中国は15億人であり、その経済は年5%強あるいはそれ以上といった急速な発展を遂げているからです。しかし中国にとってはこれで十分でしょう。ビスマルクはかつて、「重要なのはポテンシャルだ」と述べました。中国のポテンシャルは超大で、購買平価でも経済規模でも今や世界一位です。米国を既に追い抜き、成長率はまだ伸びています。

ここで我々は、誰が誰を恐れているのかを議論するつもりはありません。そのような話はやめておきましょう。その代わり、1991年以降、ロシアが「文明的な民族」の兄弟家族の一員に混ぜてもらえることを期待していたものの、そのようなことは起きなかったという点についてお話しましょう。貴方たちは我々を騙したのです。(私が「貴方たち」と言うとき、それは貴方個人ではなく、米国のことを指しているので、ご了承ください。)米国はNATOを東方に拡大しないと約束していたのに、これが5回行われました。つまり5つの拡大の「波」が起きました。我々はずっと我慢し、説得を続けてきました。「そんなことをしてはいけない。我々は今や貴方たちと同じ側の人間、すなわちブルジョアと言われる人間なのだから。我々にも今や市場経済があり、共産党政権は存在しないのだから、話し合いで解決していこう」と言い続けてきました。

更に、私は既に公言してきたことでもありますが、エリツィン時代のことを取り上げましょう。暗雲が指す瞬間がありました。それより前にエリツィンは訪米し、議会で「God bless America」という素晴らしい言葉を述べました。彼は全てを打ち明け、これが「自分たちを仲間に入れてほしい」というシグナルでもあったのです。

いや、しかし、ユーゴスラビア事変が起きた時…それまではエリツィンのことはそれはもう賞賛されていました。ですが、彼がセルビア人を守るために声を上げた途端に…我々はセルビア人擁護のために声を上げざるを得ませんでした。複雑な問題だったのは私も理解しています。ですが、ロシアとしては、民族的に近く、同じ正教徒で文化的な共通点などもあるセルビア人のために声を上げないわけにはいかなかったのです。セルビア人は数世紀にわたり苦難を強いられてきた民族でした。でもここで重要なのは、エリツィンが彼らの擁護を口にした後、米国は何を行ったのでしょうか?国際法や国連憲章に違反し、ベルグラードへの空爆を始めたのです。

米国は悪鬼を解き放ちました。それどころか、ロシアが反対と怒りを表明したとき、どんなことが語られたのか?国連憲章や国際法は時代遅れのものとなった、と。今日では何かにつけ国際法が引用されていますが、当時は、これらは全て時代遅れだから作り替えないといけないと言われていたのです。

パワーバランスがともあれ変わった以上、確かにそれらの一部を作り替える必要はあったでしょう。ところでエリツィンに対しては、すぐさま口汚い非難が始まりました。彼がアルコール依存症で、何も理解できず考えられない人間であるとか言われました。そんなことはありません。彼は全て理解できていましたし、考えることもできていたことは、私が請け合います。

【NATOとビル・クリントン】

でもまあ、2000年には自分が大統領に就任しました。その時考えたのが、まあいいか、ユーゴスラビアのことは過ぎ去ったことだ。関係回復を試みる必要がある。ロシアが通ろうとする扉を開けないといけない。しかも私は、そのことを公言さえもしました。繰り返しになりますが、当時任期終了間近のビル・クリントンに対し、ここクレムリンにおいて、まさに隣の部屋で、私は問いかけました。「ところでビル、もしロシアがNATOへの加盟を提起したら、君はどう思う?それは可能だと思うかい?」。彼の回答は、「それは面白いね。(可能かどうかについては)僕が思うに、『イエス』だと思うよ」でした。ですが夕方、夕食の席で顔を合わせた時にはこう言ってきました。「あのさ、周囲の者やチームの人間と話したんだけど、『ノー』だ。今は不可能だ」と。ご本人に聞いてみてください。彼はこの我々のインタビューを見るだろうから。そしてその通りだと言うでしょう。これがなければ、私はそのようなことは決して言うことがなかったでしょう。まあいいでしょう、今では不可能なことです。

カ: そのとき貴方は本心からそう言ったのですか?NATOに加盟するつもりが?

プ: いいですか、私は、そのことが可能かどうかを聞いたんですよ。でも得られた回答は、「ノー」でした。もし、指導者の見解を知りたいという気持ちに嘘があれば・・・

カ: もし彼が「イエス」と答えたのであれば、貴方はNATOに加盟していましたか?

プ: もし彼が「イエス」と答えたのであれば、親交のためのプロセスが始まり、そしてパートナー側の本心からの希望を我々が見出していれば、最終的にそれは実現していたかもしれません。しかし結果としては異なる終わり方をしました。ならば仕方のないことです。

カ: それは何故だと思いますか?どんな理由があってのことだったでしょうか?そのことで貴方は不愉快な思いをされたとお察しします。でも何故、西側諸国が貴国を拒んだとお考えですか?このような敵意はどこから?何故、関係を改善できなかったのでしょうか?どのような動機があったとお考えですか?

プ: 私が不愉快な思いをしたと仰いましたが、それは違います。不愉快な思いではなく、単なる事実の確認です。我々は花婿と花嫁といった関係ではありませんから、不愉快とか悔しさとかは、このようなケースで意味を成す本質的なものではありません。我々はただ単に、自分は歓迎されていないと理解したまでのことです。まあいいでしょう。ならば、別の方法で関係を築いていきましょう、接点を見出していきましょう(、ということになったのです)。なぜ私が否定的な返答を受けたのかについては、それぞれ自国の指導者にお尋ねください。私には推察することしかできませんので。自らの意見を持ったあまりにも大きな国であるが故の、とかそういった類のものです。

米国については…NATOでどのように問題が解決されていくか私は見てきました。

ウクライナに関するもう一つの例を引用しましょう。米国指導者は「圧力」をかけ、NATOの全加盟国は従順に賛同しています。たとえ何か気に入らないことがあっても。これについて、2008年にウクライナ絡みで何があったのかお話しましょう。尤も、このことは既に話題にされており、特に目新しい情報はないのですが。しかしながら、その後我々は別のやり方で関係を築こうとしてきました。例えば、中東でのイラク情勢のことがありました。我々は非常に穏便に米国との関係をつくってきました。

米国に対して私は何度も、北コーカサスの分離主義者のこともテロリズムも支持しないように提起してきました。しかしそれは継続されたのです。米国およびその衛星国によるコーカサスのテロ組織への支援は、政治的、情報的、財政的、あまつさえ軍事的なものにも及びました。

ある時私は、カウンターパートである米大統領にこの問題を提示しました。すると彼は言いました。「そんなはずはない。君には証拠があるのか」。−「ある」と私は答えました。このような話に備えていましたから。そして証拠を彼に見せました。それを見た彼は、何と言ったと思いますか?(ひどい表現で)申し訳ないですが、言葉通りに引用すると、「奴らのケツを蹴り飛ばしてやる」と言ったのです。我々は回答をずっと待っていましたが、結局受け取れずじまいでした。

私は連邦保安庁長官に「CIAにレターを送り、大統領との会話で成果が得られたのかどうか尋ねてくれ」と指示しました。(彼は)一度、二度と書簡を書き送り、その後回答を受け取りました。その文書も公文書館にあります。CIAからの回答には、「我々はロシア反対勢力と活動してきた。我々はこれが正しいことだと考えており、今後も反対勢力と活動していく」とありました。可笑しいことです。でもまあいいでしょう。ただ、対話の余地はないと我々は理解したのです。

カ: 貴方にとっての反対勢力と?

プ: もちろんです。あの時の場合は、コーカサスで我々と敵対して戦っていた分離主義者、テロリストのことです。(回答では)彼らのことを指しており、反対勢力としていました。これが2点目です。

3点目は非常に重要です。それは米国の対ミサイル防衛システム設置のことです。我々は長い間、米国にそれをしないように説得してきました。更に言えば、ブッシュ(父)元大統領、つまりブッシュジュニアの父親が海沿いの土地に私を招待した時、ブッシュ大統領とのそのチームとの真面目な話が行われました。

そこで私が行った提案とは、米国、ロシア、ヨーロッパで共同の対ミサイル防衛システムを設置するというものでした。このシステムは、もともと米国の公式声明ではイランからのミサイル防衛のために設置するとし、正当化されていましたが、我々は、その一方的な設置によって我が国の安全保障を脅かすことになると考えていました。ですので、私はロシア、米国、ヨーロッパの三者で協力することを提案しました。彼らは「とても興味深い」と応じ、私に「君は本気か?」と尋ねました。私は「全くその通りだ」と答えました。

カ: それはいつのことでしたか?何年の出来事でしたか?

プ: 覚えていません。ただ、私がブッシュ・シニアの招待で訪米した時期はネットで簡単に調べることができるでしょう。ただ、これからお話する人からはもっと簡単に知ることができますよ。

私への反応は「それはとても興味深い」というものでした。私は続けて「安全保障におけるグローバルな戦略的課題を我々が一緒になって解決していくことを想像してほしい。世界は変わるだろう。おそらく経済的かつ政治的な反対議論も生じるだろうが、我々は世界情勢を根本から変えていくことになる」と言いました。彼は「そうだな」と応じ、「君は本気なのか?」尋ねました。私は「もちろん」と答えました。彼らは「検討する必要がある」と言ったので、私は「どうぞ」と応じたのです。

その後、今私たちが話しているこの部屋に、米国のCIA元長官のゲーツ現国防長官、ライス国務長官がやって来て、ちょうどこのテーブルのこちら側に着いていました。我が方は、自分、外務大臣、国防大臣がテーブルのあちら側にいました。彼ら曰く「我々は検討した結果、同意する」。「それはよかった、素晴らしい」と私。「だが幾つかの例外を設ける」と。

カ: つまり、米大統領が何らかの決定を下したものの、彼のチームがそれを覆したという事例を2件、貴方は挙げられたわけですね?

プ: まさにその通り。結局、我々は追い払われたのです。ともあれ密談でしたので、詳細を話すことはできません。しかし、我々の提案が拒否されたのは事実です。

まさにその時、私は次のように述べました。「いいですか、ならば我々は対抗措置を取らざるを得なくなります。我々は同様の攻撃システムを設置することになるし、それは間違いなく(そちら側の)対ミサイル防衛システムを超えるものとなるだろう」。それに対する返答は次のようなものでした。「我々が行っていることは貴国に対抗するものではない。貴国としては、それが我が米国に対抗するものではないという前提において、お好きなようにすればいい」。私は「分かった、いいでしょう」と答えました。そして極超音速システムを作り上げました。ちなみにその距離能力は大陸間で、今も発展開発中です。現在、我が国は極超音速攻撃システムにおいては、米国はじめ全ての国を凌駕しています。そして今も改良を続けています。

しかし我々がこれを始めたわけではありません。我々は別の形を提案したのに、それが拒まれたのですから。

次に、NATOの東方拡大について。確かに約束はされました。曰く「NATOは一切、1インチたりとも東方に拡大することはない」と。でも実際その後どうなったか?その時言われたのが、「だって書面には記さなかったことだし、だから拡大していくんだ」というものでした。5回にわたり拡大されました。バルト三国や東欧全体などが組み込まれていきました。

そして、いよいよ本題に移りますが、ウクライナまでやって来たのです。2008年のブカレスト首脳会議の声明で、ウクライナとジョージアに対するNATOへの扉は開かれていると言われたのです。

次に、あちらの決定採択の方法について。ドイツ、フランスや、そのほかの複数の欧州国はどうやら反対だったようです。しかし後になって分かったことですが、ブッシュ大統領という強気の政治家が、後で聴いた内容によると、「(彼が)私たちに圧力をかけたので、同意せざるを得なかった」そうです。可笑しい、まるで幼稚園のように子供じみたものです。どこに保証が?全くもって幼稚園ですよ。「圧力をかけられた」から、同意した、なんて。その後彼らは、「ウクライナはNATOに加盟しないよ」などと言っています。ですが私は、「分からないね。あなた方が2008年に同意したことは覚えている。今後は同意しないなんてことはあるのか?」と。「当時は我々に圧力がかけられたから」。私:「では今後も圧力をかけられないということは?そうしたらあなた方はまた同意するのでしょう?」。全く馬鹿げた話です。誰と話をすれば良いのか、もうわかりません。我々には対話する用意があるのです。でも一体、誰と?保証は?何もありません。

【ウクライナ】

そんなわけで、ウクライナの領土が吸収され始めたののです。いずれにせよ、私は歴史的背景や、あの地域がどのように発展していったか、ロシアとの関係についてお話しました。2人または3人に一人は、常にロシアとの何らかの関係がありました。選挙に関しては、独立宣言で独立を獲得した独立主権国家のウクライナにおいては・・・ちなみにウクライナは中立国家であると書かれていますが、2008年には突如としてその前にNATOへの門戸が開かれたのです。まったく面白い映画作品ですよ。我々はそんな合意をしたのではありません。

ウクライナの政権に就いていた過去の大統領は皆、とにもかくもロシアに良好な有権者たちに支えられてきました。これはロシア南東部のことで、多くの人口を抱えています。このロシアに良好な有権者たちを「抑え込む」のはとても困難です。

ヴィクトル・ヤヌコヴィッチが権力の座に就いた経緯ですが、最初はクチマ大統領に勝利しました。ですが、ウクライナ憲法には規定されていない3回目の投票(再決選投票)が実施されました。これは国家政変(クーデター)でした。米国で、これが気に入らなかった人がいた場合のことを想像してみてください。

カ: 2014年のことですか?

プ: いえ、その前のことです。それよりも前のことでした。クチマ大統領の後にヴィクトル・ヤヌコーヴィッチが選挙で勝利したのですが、彼の反対者たちはその勝利を認めませんでした。そして米国はその反対運動を支持し、3回目の投票を指定したのです。これは一体どういうことですか?国家政変です。米国はこれを支持し、3回目投票の結果、就任したのは・・・想像してみてください、仮に米国の中に、何かの結果を気に入らない誰かがいて、米国憲法には定めのない3回目投票を実施したとすれば?しかしながら、あちら(ウクライナ)ではそれが敢行されました。まあいいでしょう、就任したのはヴィクトル・ユーシェンコという、西側志向の政治家とされていた人物でした。いいでしょう、我々は彼との関係も築きました。彼はモスクワを訪問し、我々もキエフを訪れました。非公式の場でも面会しました。西側志向であれば、それでも構わない、と。構わないが、民衆は労働に勤しんでいる。独立国であるウクライナの国内は発展していくべきです。ですが、彼が国の統治を始めた後、国内状況は悪化しました。そしてその後は最終的にヴィクトル・ヤヌコーヴィッチが大統領に就任したのです。

彼は最良の大統領や政治家ではなかったのかもしれません。私にはわかりませんし、評価を下したくはありません。しかしEU加盟問題が持ち上がっていました。ただ我が国は本件については、「どうぞ」といった風に、きわめて忠実に対応していました。ですが、我々がこの連合合意書を読んだ時、これは我が国にとって問題になることが判明したのです。我が国とウクライナには自由経済区があり、通関国境も開かれているのですが、この連合に従えばウクライナはその国境をヨーロッパに開かねばならず、それによって我が国の市場へも大量に流入してくることとなります。我々は「いや、それなら上手くいかない。ならば我が国はウクライナとの国境や通関国境を閉鎖する」と伝えました。そこでヤヌコーヴィッチは、ウクライナがどれだけのものを獲得し、逆にどれだけのものを喪失するのかについて考え始め、ヨーロッパのカウンターパートに「署名する前にもう少し考える必要がある」と伝えました。そのことを伝えた途端に、反対勢力による破壊的行動が始まったのです。この運動は西側諸国の支持を受けたものであり、結果的にマイダンというウクライナのクーデターへと繋がったのです。

カ: つまり彼はEUよりもロシアと多く取引したということですか?ウクライナは・・・

プ: もちろん。取引高も多いが、問題はそこではありません。問題は、ウクライナ経済全体が依存していた(両国の)企業提携関係にありました。この企業間の提携関係はソ連時代から続く、非常に強固なものでした。ある企業で製造する部品がロシアやウクライナで最終組立に使われたり、その逆も然り、といった具合で、非常に密接に結びついているのです。

そしてクーデターが起きました。詳細を語るのはよろしくないので伏せますが、米国から我々に対して言われた内容とは次のようなものでした。「貴方たちはヤヌコヴィッチを鎮めてください。我々は反対勢力を抑えます。政治的解決という形でやっていきましょう」。我々は「分かりました、そのようにしよう」と答えました。米国が我々に頼んだ通り、ヤヌコヴィッチは軍隊も警察も行使しませんでした。しかし、キエフで軍事化した反対勢力がクーデターを起こしたのです。このことを何と理解すれば良いのか?貴方たちは一体何様なんだ?−当時の米政権指導部に、私はそう問い質したいものです。

カ: 誰が支持したのでしょうか?

プ: もちろん、CIAです。私が知る限り、貴方がかつて勤めたいと望んでいた組織です。貴方が雇用されなかったのは、良かったのかもしれません。重要な機関であることは理解しています。ですが、自分やかつての同僚たちはソ連諜報機関である第一総局に勤めていたので、常に敵対関係にあったのです。仕事は仕事です。

彼らは技術的には正しいことをしました。政権交代という達成すべきことを達成しました。

しかし、政治的観点では、これは重大な過ちでした。当然ながら、政治指導者の手抜かりでした。政治指導者は、その結果どうなるのかを見越すべきでした。

2008年にはウクライナに対しNATOへの門戸を開き、そして2014年にはクーデター(国家政変)を実行しました。しかもこの時、国家政変であると認めなかった人々に対する弾圧が始まり、クリミアが脅かされたために、最終的に我々は自国の庇護下に置かざるを得なくなったのです。2014年にはドンバス戦争も始まり、一般市民に対する空爆や砲撃が行われました。ここから全てが始まったのです。ドンバス上空から航空機が攻撃を行なっている録画映像もあります。一回の大規模軍事作戦を行い、それを繰り返し、失敗したらまた次に備える、といった感じでした。これら全ての背景には、この領土の軍事的占拠とNATOへの門戸開放がありました。

しかし、これらの出来事について、我々が懸念せずにいられましょうか?我々にしてみれば、これは無謀な過失です。米国の政治指導者は我々を、もはや超えられない一線にまで追い込みました。超えられない一線とは、それを超えてしまったら、自国ロシアそのものを破壊することになるからです。それに我々は、この軍事機器に潰されそうな、宗教を同じくする人々、実質的にはロシア民族の人々を見捨てることはできませんでした。

【紛争の引き金となったのは?】

カ: つまり、これらは、紛争開始までの8年間にあったことなのですね。それでは、何がこの紛争に走らせたのでしょうか?貴方がやはりその一歩に踏み切らざるを得なかったのは?

プ: 当初はウクライナでの政変でした。

ちなみに、ヨーロッパからは3カ国の代表者が訪問しました。ドイツ、ポーランド、フランスです。彼らはヤヌコヴィッチと反対勢力による署名合意の保証人で、書面には保証人として署名を行いました。それにもかかわらず、反対勢力はクーデターを起こした時、これらの国は、平和的解決の保証人であることを忘れたふりをしたのです。(文書を)すぐさま暖炉に放り込んでしまえば、誰も思い出す人はいないだろう、ということです。

この反対勢力と政府間の合意や、その保証人たちのことを米国で把握されていたかどうかはわかりません。この保証人たちは、現状を政治的な話(での解決)に戻す代わりに、国家政変を支持しました。(国家政変なんて)、全く意味のないものだったのに。ヤヌコーヴィッチ大統領は全てに同意し、率直に言って、彼自身が勝てる見込みのない任期終了前選挙さえも実施する用意もありましたから。(彼が次の選挙で敗北することは)周知のことでした。

しかし、なぜ国家政変や、それに伴う犠牲が必要だったのか?なぜクリミアを脅威に陥れる必要があったのか?なぜドンバスでの作戦を開始したのか?これらのことが私には理解できないのです。CIAは国家政変を実現し、その目的を果たしました。確か、国務副長官の一人が、50億(ドル)近くの莫大な費用をかけたと発言したとか。しかし、政治的な過ちも莫大なものでした。なぜこんな事をする必要があったのか?同じようなことを、合法的なやり方で実行することもできたのに。犠牲を伴わず、軍事行動抜きで、そしてクリミアを失うことのないやり方で。我々としても、マイダンでの流血の惨事がなければ、一指たりとも動かすことはなかったのに。そんなことは考えもしなかったのに。

なぜなら、ソ連崩壊後、全ては各連邦共和国の国境ラインに従うことに我々は同意していたからです。我々はそのことに同意していました。しかしながら、NATOの拡大には、そしてウクライナがNATOに加盟することには、我々は決して同意していませんでした。あちら(=ウクライナ)において、我が国との一切の対話なくNATO基地が配備されることには同意していませんでした。数十年にわたり、我々はただ「そんなことはしないで欲しい。やめて欲しい」と説得してきたのです。

では、昨今の事変の引き金(トリガー)となったのは一体何なのか?第一に、現在のウクライナの指導者は、ミンスク合意を履行しないと宣言しました。ミンスク合意とは、2014年の事変の後にミンスクで交わされた合意で、ドンバスにおける平和的解決のための計画が盛り込まれていました。しかし、現在のウクライナ指導者、外務相などの公的人物、そしてのちには大統領自らも、ミンスク合意は何一つ気に入らないと明言したのです。言い換えれば、これを履行するつもりはないということです。またドイツやフランスの前政権指導者は、今頃になって、つまり1年から1年半前に、ミンスク合意には確かに署名したが、履行するつもりは一切なかった旨を全世界に向けて公言しました。我々はただ、騙されたのです。

カ: 貴方は国務長官や大統領とお話になったのですか?もしかすると彼らは、貴方との対話を恐れていたのでは?彼らがウクライナへの武器供与を続けるのなら、貴方は行動を起こすつもりだということを、彼らには伝えたのでしょうか?

プ: そのことは我々は常に口にしていました。米国や欧州諸国の指導部に対し、このプロセスを直ちに止めてミンスク合意を履行するよう求めていました。正直なところ、我々がどうするのかは分かっていませんでしたが、(ミンスク合意を)履行する準備は私にはありました。それは、ウクライナにとっては複雑なもので、ドンバス独立の要素も多く含まれていました。しかし私が絶対的に確信していたのは…今から貴方にお話することを、私は本気で信じていたのです。もし、ドンバス住民を何とか説得できれば、− 何故なら、彼らをウクライナ国家体制の下に戻るよう説得する必要がありましたから – 徐々に、少しずつでも傷は癒えていくだろう、と。この地域で徐々に経済活動が戻り、社会環境が回復し、年金や社会福祉が支払われるようになれば、全ての傷跡は少しずつ塞がっていくだろう、と。しかし、誰もそれを望まなかったのです。軍事力で以って問題を解決することを皆が望んだのです。しかし我々はこれを許容することはできませんでした。

そして、ウクライナ側で「何も(履行)するつもりはない」と公言した後、今日の状況に至ったのです。(あちらでは)軍事行動の準備も進められていました。彼らが戦争を始めたのは、2014年でした。我々の目的は、その戦争を止めることにありました。ですので、我々が2022年に始めたのではなく、あの戦争を止めようという試みだったのです。

カ: では貴方のお考えでは、それを止めることができたと思いますか?ご自身の目的は達成されたのでしょうか?

プ: いいえ、我々はまだ目的は達成していません。なぜなら、目的の一つは非ナチ化、つまり、あらゆるネオナチ的活動を禁止することにありますから。これは、昨年始めにイスタンブールで終わった交渉過程の中で協議されていた事項の一つです。この交渉プロセスは、我々の側によって終了したのではありません。我々は西側諸国から「文書に最終署名をするための条件を必ず整えるべきだ」と言われました。フランスとドイツの同僚曰く、「彼らがこめかみにピストルを当てられた状態で、署名ができると思うか?だからキエフから軍を撤収させるべきだ」と。そこで私は「分かった」と言い、我々はキエフから軍隊を撤収させました。

しかし、キエフから軍隊を撤収させた途端に、ウクライナ側の交渉担当者はすぐさま、イスタンブールで達成していた合意を反故にしたのです。そして、米国やその衛星国である欧州諸国の支援を受け、長期に及ぶ軍事抵抗を整えました。このようにして状況が発展していったのです。これが、今目の当たりにしている現状です。

カ: 「非ナチ化」とは何でしょうか?これはどういう意味なのでしょうか?

プ: ちょうどそのことをお話したいと思っていました。これはとても重要な問題です。

「非ナチ化」とは?ウクライナは独立を得た後、西側諸国の複数のアナリストも指摘するように、自らのアイデンティティを模索し始めました。その結果、このアイデンティティの頂点に、ヒトラーと協力していた偽物の英雄たちを掲げる以外に何も思いつきませんでした。

既にお話した通り、19世紀初めにはウクライナの独立と主権を主張する理論家たちが現れました。しかし彼らは、独立したウクライナはロシアと親善関係を持つべきだという前提に立っていました。

ですが、歴史的な経緯でこの地がポーランド・リトアニア共和国やポーランド領にあったとき、ウクライナ人はかなり酷い迫害を受けてきました。没収されたり、アイデンティティが根絶させられようとしたり、残酷な扱いをされてきたことの全てがこの民族の記憶に残りました。そして第二次世界大戦が始まったとき、過激な民族主義に駆られたエリート層の一部は、ヒトラーが自分達に自由をもたらしてくれると期待し、彼と協力を始めたのです。ドイツ軍、しかもSS隊さえもが、最大の汚れ仕事であるポーランド人・ユダヤ人根絶作業を、ヒトラーに協力した対敵協力者に委ねていました。その結果、ポーランド人やユダヤ人、更にはロシア人を対象とした大虐殺が起きました。その指揮に当たっていたのが、有名なバンデラやシュヘヴィッチです。まさにこれらの人物が、民族的英雄に仕立て上げられたのです。ここに問題があるのです。我々に対し、「民族主義やネオナチズムは他の国にも存在している」と始終言われます。確かに、そのような萌芽はありますし、我々はそれを抑え込みます。他国でも同じようにしています。ですが、ウクライナでは(状況が)異なります。ウクライナではそのような人物を国民的英雄として称え、記念像を打ち立て、その名が記された旗を掲げて民衆が叫び、松明を上げて行進するのです。まるでナチスドイツのように。彼らは、ポーランド人、ユダヤ人、ロシア人を虐殺してきた人々です。このような考えややり方は、やめさせないといけません。

当然ながら、あらゆる民族は発展を遂げます。私は(彼らが)ロシア人の一部であると述べましたが、彼らは「いや違う。自分達は独自の民族だ」と主張しています。まあいいでしょう。自らを独自の民族だとみなすのなら、それも彼らの権利です。

しかし、その根底にナチズムやナチス的イデオロギーがあってはなりません。

カ: 貴方は現在掌中にある領土に満足していますか?

プ: (少し待ってください、)もうすぐ終えますから。貴方はネオナチズムと非ナチ化について質問されたのですから。

ウクライナ大統領がカナダを訪問した時のことでした。これは広く知れ渡っていますが、西側諸国では黙殺していることです。カナダ議会で議長が、第二次世界大戦でロシアに敵対して戦った人物を紹介しました。そもそも第二次世界大戦でロシアに敵対していたのは?そう、ヒトラーとその協力者たちです。後になって、この人物がSS隊に仕え、自らの手でロシア人やポーランド人、ユダヤ人を殺めてきたということが判明しました。ウクライナ民族主義者で編成されたSS隊は、この汚れ仕事を担当していたのです。ウクライナ大統領はカナダ議会の議員全員と共に起立し、この人物に拍手を送りました。この件をどう捉えれば?ウクライナ大統領自身が、ちなみにユダヤの出自なのに。

カ: 貴方はどうするつもりですか?ヒトラー没後既に80年が経ち、ナチスドイツはもう存在していないのは確かです。貴方は、ウクライナ民族主義の炎を消したいと仰るが、でもどうやって?

プ: いいですか、貴方のご質問は非常にデリケートで…私の考えるところを述べても構いませんか?気を悪くされませんか?

カ: もちろん、どうぞ。

プ: この質問は一見繊細ながら、忌まわしいものでもあります。

ヒトラーの死後80年もの月日が経ったと貴方は仰る。ですが、彼の事業は生き続けているのです。ユダヤ人やロシア人、ポーランド人を殺害してきた人々は生きています。そして今日のウクライナ現行大統領は、カナダ議会でそのような人間に対して起立拍手を行っているのです。このような現状を目の当たりにして、かのイデオロギーを完全に根絶したと果たして言えるものでしょうか?これが、我々の理解するところの非ナチ化なのです。このような考えややり方を踏襲している人々から解放されなくてはなりません。これが非ナチ化です。このように我々は理解しています。

カ: わかりました。もちろん私はナチズムもネオナチも擁護していません。ですが、私の質問は実際的なものです。国の全てを管理しているわけではない貴方は、どのようにして国内のイデオロギーや文化、感情、歴史観を根絶することができるのでしょうか?それを達成する方法とは?

プ: 奇妙に思えるかもしれませんが、イスタンブール交渉のとき、書面にも残っていることなのですが、ウクライナでは今後ネオナチズムを醸成させない、しかも法的にもこれを禁ずるという点で我々は合意に達していました。カールソンさん、我々はこの点で合意していたのですよ。このことは、交渉プロセスの中で合意可能でした。そして現代の文明国家としてのウクライナにとっても、これは何ら屈辱的なものではありませんでした。だって、どこぞの国家でナチス主義者の喧伝などが許されるものでしょうか?そうでしょう?それだけの話です。

【平和的解決は?】

カ: 交渉は今後あるのでしょうか?ウクライナ紛争を解決するための和平交渉が未だに行われていないのは、何故でしょうか?

プ: 交渉はあったのですよ。しかもその複雑なプロセスの合意局面も終盤に近く、実質的にはほぼ完了していたのです。しかしながら、既にお話した通り、我々が自軍をキエフから撤収した途端に、他方のウクライナ側はこれらの合意を反故にし、西側諸国すなわちヨーロッパと米国の指図に従うようになったのです。勝利するまでロシアと戦い続ける、という指図に。

それどころか、ウクライナ大統領は、ロシアとの交渉を法律でも禁止したのです。彼は、皆に対しロシアとの交渉を行うことを禁止する文書に署名しました。彼が自分自身に対してのみならず全員に対して禁止してしまった以上、我々としては一体どうやって交渉を行うことができようか?彼がこの解決について何らかの理念を推進しているのは分かっています。ですが、合意を果たすには、対話が必要なのではないでしょうか?

カ: ですが、貴方はウクライナ大統領と話すつもりはなくて、米大統領と話すつもりなのでしょうか?貴方がバイデン大統領と最後に話したのはいつのことですか?

プ: いつ話したのか、もう覚えていません。(記録などを)見れば良いのでは?

カ: 覚えていらっしゃらない、と?

プ: ええ。私は全てを記憶しておかないといけないとでも?私は自分の仕事で一杯なんです。内政もありますし。

カ: しかし彼は、貴方が行っている戦争の財政支援をしています。

プ: ええ、彼は財政支援を行っています。ですが私が彼と話した時、それはもちろん特別軍事作戦が始まる前のことでしたが、その時彼に伝えたのは(詳細を打ち明けるつもりは一切ありませんが)、次のようなものでした。貴方がウクライナで起きていることを支持し、ロシアを拒絶するのであれば、それは歴史的規模並みの大変な過ちを犯すことになるだろう。そのことを一度ならず彼に話しました。おそらく、その通りになるでしょう。これくらいで私は止めておきます。

カ: 彼はなんと答えたのですか?

プ: それはご本人に聞いてください。米国人の貴方にとっては簡単なことでしょう。訪ねていって、質問してください。私が我々の(あの)会話について(これ以上)話すのは不適切だと思いますので。

カ: それ以来、つまり2022年2月以降、貴方は彼と話をしていないのですね?

プ: ええ、話をしていません。しかし一定のコンタクトはあります。ところで、対ミサイル防衛システムの協同提案に関してお話したのは覚えていますか?

カ: はい。

プ: 全員に尋ねてみるといいですよ。幸いにも皆さんご存命ですからね。元大統領も、コンドリーザ(・ライス氏)もお元気ですし、おそらくゲーツ氏も、それに当時の優秀な駐ロシア大使で現在はCIA長官を務めるバーンス氏も。皆これらの会話に同席していたのだから、彼らに聞いてみてください。

それと同様に、私の言葉に対するバイデン大統領の返答が気になるのでしたら、ご本人に直接尋ねてください。いずれにしても、我々はこのテーマで話をしていました。

カ: よくわかります。ですが、外部の者からすれば、これらの全てが、全世界を戦争勃発の状態に巻き込み、しかも核攻撃をもたらす可能性があるようにも思えるのです。貴方は何故、バイデン氏に電話して、「この問題を何とか解決しよう」と持ちかけないのですか?

プ: 何を解決するというのですか?全て実に簡単なことです。繰り返しますが、我々には様々な機関を通じて接触しています。この点に関して我々が米政府指導者に伝えている内容とは、次の通りです。「戦闘行為を止めさせたければ、武器の供与を止めるべきだ。そうすれば、数週間以内に全てが終わるだろう。それだけのことだ。それならば、あなた方でそれをする、つまり止める前に、何らかの条件について話し合いをすることができる」。

これ以上に簡単なことは?何だって私が彼に電話をしないといけないのか?何について話せば、或いは何を頼み込めば?「ウクライナに武器を供給するつもりですか?おやそれは恐ろしいことだ。どうか供給しないでください」とでも言えばいいのでしょうか?一体に何について話せば?

カ: NATOは、これが世界戦争に、さらには核紛争に発展する可能性を懸念しているとお考えでしょうか。

プ: いずれにしてもNATOはこのことに言及しており、そして架空のロシア脅威によってNATO領域内の人々を怯えさせようとしているのは、明白な事実です。しかし、思考力のある人々、俗人ではなく、思考力のある人々、つまりアナリストや、本当の政治に携わる人々、或いは単に賢明な人々は、これがフェイクであることをよく理解しています。ロシアの脅威というものが膨れ上がっているのです。

カ: ロシアがポーランドやラトヴィアに侵攻する恐れのことですね?貴方は、ポーランドにロシア軍を差し向けるシナリオを想像できますか?

プ: ただ唯一の場合において。それは、ポーランド側からロシアに攻撃を行う場合です。何故か?何故なら我々には、ポーランドにもラトヴィアにも、どこにも一切の関心がないからです。どうして我々にこれらが必要なのか?我々には単に全く関心がありません。脅威の煽りです。

カ: その論拠となっているのは、貴方もよくご存知だと思いますが、彼はウクライナに侵攻した、彼には大陸全体における領土的野心がある、という点です。貴方にはこのような領土的野心はないと、はっきり仰ることはできますか?

プ: 全くもってあり得ないことです。(これを理解するには)何もアナリストである必要はありません。だって世界的な戦争に巻き込むなど、常識的な考えにも矛盾していることですから。世界戦争によって全人類が滅亡の危機に陥ります。これは明白なことです。

もちろん、これを抑止する手段はあります。我々は常に、皆を怖がらせてきました。ロシアは明日にも戦略的核兵器を用いるだろう、明日でなければ明後日にも、といった具合です。だから何だと言うのですか?これは、ウクライナの戦場でロシアと敵対すべく、米国や欧州の納税者たちから更に金を搾り取ることを意図とした、俗人たちのための恐怖話に過ぎません。その目的とは、ロシアをなるべく弱体化させることにあるのです。

カ: チャック・シューマー米上院議員は確か昨日の発言で、「我々はウクライナへの財政支援を継続すべきだ。さもないと最終的には米兵がウクライナで代わりに戦う羽目になる」と述べました。このような発言についてどうお考えですか?

プ: 扇動、それも安っぽい扇動です。何故米兵がウクライナで戦わないといけないのか、私には理解できません。あちらには米国出身の傭兵がいます。傭兵数で最も多いのはポーランド出身者、その次に米国、3位はジョージアとなっています。もし何処かの国で正規軍を派遣したいということになれば、それはもちろん、極めて深刻な世界紛争の危機に人類を陥れることになるでしょう。それは明白です。

そんなことが、米国にとっては必要なのでしょうか?何のために?国境から1000kmも離れた場所で?あなた方には他にすることがないですか?ご自身の国境問題も多く抱えているのに?移民問題や、33兆ドル超の国家債務問題だってあるのに?他にすべきことがなくて、ウクライナで戦うとでも?

ロシアと合意した方が良くはないですか?今日の情勢を踏まえた上で、ロシアは自らの国益のために最後まで戦い抜くことを理解した上で、合意した方が良いのでは?この点を理解して常識を取り戻し、我が国とその国益を尊重し始め、何らかの解決策を模索した方が?私には、その方がずっと賢明で理性的だと思えます。

【ノルドストリーム爆破は誰の仕業か?】

カ: 誰が「ノルドストリーム」を爆破したのでしょうか?

プ: あなた方ですよ、もちろん(笑)

カ: 私はその日は別用で忙しくしておりまして。私は爆破していませんよ。

プ: 貴方ご自身には、おそらくアリバイがあるのでしょう。しかしCIAにはそのようなアリバイはありません。

カ: NATOもしくはCIAが行ったことを示す証拠が、貴方にはあるのでしょうか?
・・・
(後半へ続く)

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