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高校の時私のことが大嫌いだった先生から、「お前の反省文は気持ちが悪い」と言われたことがある。毎日毎日洗脳のように同じような言葉を並べさせることに力を入れていた頭の硬いハラスメント教師には、教師ごときが無理やり書かせる文章よりも私の文章の方が余程崇高で尊いことは分からなかったのだろう。その瞬間の感情や目の前に起こっていることを言葉に変える。それを他人に強いられず素直に続けることが、どれだけ難しいことか。

歳を取れば取るほど、勝手に感情が複雑になっていく。言葉にならない気持ちが募れば募るほど、あの頃の私の尊さと、あの頃の教師の哀れさに気付かされる。そして私自身も、その哀れな大人に近づいているのではないかと不安になるのだ。

めちゃくちゃな言葉たちに、早く感情を片付けてもらいたい。現実はなかなか、そうもいかないのだけれど。

切り捨ててしまえれば楽だったのかもしれない。私は私で幸せになるし、それでいいと思えたのかもしれない。依存が幸せを生まないことは、もう何度も思い知らされている。人は、1+1が2以上になって初めて、一緒にいることに価値が生まれる。目の前の1を気にして、自分の神経を擦り減らすことが幸せなのかと、人間関係の相談を受けるたびにそう答えてきたし、それは極めて合理的で、現実的で、不幸にならないために必要な「自立」の柱なのだ。

それでも人は何かに依存しようとするし、理性とは別のところで感情をコントロールできなくなってしまう。何よりも大切なはずの人たちを、いつもいつも、結果的に傷付けてしまっているような気がして、私は永遠に強くなりきれないまま中途半端に殻にこもっている。

誰かを大切に思えば思うほど、失いたくないと思えば思うほど、何も分からなくなる。正しい答えよりも、傷付かない答えを探して、迷子になることにだんだん疲れてきた。大切な人の幸せと、大切な人が大切に思ってくれる自分の幸せがどうして並立しないのか。

この残酷さを生み出しているのもまた私自身なのに、私はずっと被害者ヅラをしながら生きている。そうでもしなきゃ、私は私を守れない。

でも、私を無理やり守ることが正しいのかも、もう分からない。

笑顔でいてほしい
幸せになってほしい

私に対してそう願っている人間を、私が不幸にしてしまう。もう何年もこんなことを繰り返している気がする。怖くて怖くて、たまらなくなるのだ。大事にすればするほど、大切に思えば思うほど、失うことが怖くなる。

何かを失うということは、必ずしも目の前からいなくなることではなく、相手の心に穴を開けてしまうことだと思う。

真っ白な雪の上に血を吐いたように、溶けて、広がっていく。このシミが消えるのはいつだろうか。降り続く雪が、かき消してくれるのか。温かい陽が、周りの白もろとも溶かしてしまうのだろうか。時間がかかる、その時間の痛みを、どう耐えてやろうか。

オナニーで構わない。
気持ち悪い自慰行為のような生き方の何が悪い。人生に現れた大切な人を、過去の人にしたり悪者にしたり、そういうのはもう嫌なのだ。気が狂うほど素晴らしくて尊くて愛に満ちた経験を、どう人生に変えてやろうか。それだけを考えながら、その結果人を傷付けながら、私はそうやって生きてきた。それがたとえ間違っていたとしても、もう後戻りはできないのだろう。

私は弱くない。少し壊れていても、壊れてしまっても、私は私の経験たちを昇華するために生きていく。

我、人と逢う。
狂おしいほど沢山の愛は、こんなところで潰れてしまうほどお粗末ではないはずだから。私は私のわがままで、そう信じて生きていく。

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