見出し画像

思いやりは好きですか?/ENFJ

思いやるというのは非常に難しい。
なんだか簡単に小学校の標語にしちゃうような人は大抵取り違えている。

思いやるという行為が非常に難しいのは、それが出来る人というのは自分のエゴを非常に冷静に見つめることの出来るかなりの人生の熟練者であるということであり、残念ながら普通にダラダラ生きていて身につくものではないからだ。
ましてや小学生に説けるような簡単なものではない。

エゴというのはいつも影帽子のようにピッタリと思考に隠れて張り付いていて、息をするように自分の色を行動に吹きつけて変色させている。
それを止めるにはそれこそ禅僧の方がただ一心に自我を沈めて生きておられるかの如く生きるしかなく、常人にはまあ雲を掴むような話だ。

思いやりという行為は残念ながら大抵の場合において、自分色に染まって主観だらけである。
別にそれは、私たちはお坊さんでもないのだから仕方のないことだと思う。
ただ難しいのは、それをついつい忘れて自分が他人を思いやっているのは美徳であると勘違いしてしまうことだ。

つくづく自分の耳にも痛い話であるが、自分が他人に何かをやってあげていると思う時、それは自分が何かを支払っているのではない。
その自分のエゴが混じった思いやりという感情を、受け取る側が優しさで受け止めたからこそ、思いやった側は自己の欲求が満たされて心地よくなっている。

このバランスでどちらが余計に支払っているのかと天秤にかけるとすれば、大抵の場合、思いやりを受け取った側の方がよっぽど多く支払っている。

思いやりという感情は残念ながら承認欲求や、相手を理解してあげたなどという勘違い甚だしい奢りで自分の思考では至ることの出来ない欠けた部分を埋め合わせて構成されていることが多く、受け取る側はその間違いを飲み込んでその上、あなたの欲求を満たしてあげるという代価を支払っている。

自分ではない他人を100理解することなど出来るはずもなく、出来ていて30がいいところだ。
だから思いやることで本当にその人が望んだ形になっているかどうかは、4発打って1発当たればいい方だ。後の3発は打たれた方が余計に代価を支払って、見返りのない愛をあなたに捧げている。7割くらいの確率で利他の精神でいるのはあなたではなく、受け取った側である。

そこを忘れて私は思いやりに溢れていて他人のために沢山支払ってあげていると、思いやりのマシンガンを乱射しまくっている人もいる。
別にそれをするのが好きなのだったら一向に構わないが、その分同じだけの感謝も乱射出来ているかどうかはちょっと見直す時間も取ってもいいと思う。

自分が誰かを思いやって、それが受け止められたのならそれはあなたがありがとうというべき場面だ。
あなたは何も支払ってはいない。
むしろ思いやって沢山受け取ったのはあなたの方だ。どうか感謝の気持ちを、思いやったその人に返してあげてほしい。
やってあげたのに、なんて思いが浮かぶならそれは間違いなく思いやりとは一番かけ離れたモノであると、ここに記しておきたい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?