「疲れ」についての連想
仕事をすると疲れるのだけれども、そもそもどうして疲れるのか、というのが意外によく分からない。
私の仕事は、ざっくりといえば患者さんに生じた医学的な問題に対して対処することなわけだが、肉体的には大したことはしていない。
というかほとんど何もしていない。座っているだけである。
入院中の患者さんを診察する時は、病棟と病棟の行き来で歩行をしたりはする。この距離も200kmとかあれば肉体的に疲れるだろうということは想像できるが、数mである。
しかし、不思議なことに、仕事が終わったときや、家に着いたときには肉体の疲れを感じる。
肉体の疲れ、と今自分は述べたが、具体的にそれはなんだろうと考えると、身体の倦怠感や眠気の類である。
知的労働をして、精神が疲れた、精神がすり減ったというのはわかるのだが、どうして肉体が疲労をしているのだろう、と考えて、そもそも精神が疲れたとは?と疑問が浮上する。
精神が疲労しているとき、例えば、何かをやろうとしても集中できない、やる気が不思議とでない、といった形でその疲労を“認識する”ことはあるが、ダイレクトに「精神疲れているわ〜」と感じることはあまりない気がする。
心が疲れていて、という言葉を聞いたとき、日常では「ああ心が疲れているのね」とふつうに流すわけだけれども、診察場面では「それは具体的にどういうことですか」と聞いている気がする。よく分からないからである。
逆に、肉体は疲れているはずなのに、妙に爽快感はある、みたいなこともある。この爽快感は、身体の爽快感というよりも、精神の爽快感な気がする。
例えば土曜の朝にジムでワークアウトをした場合、その後、妙に爽快な気持ちになって、かえって作業に集中できる、ということはしばしば経験されることであろうと思う。
と、いま「ワークアウト」などと述べて意識の高い実業家っぽい雰囲気を出してしまったが、土曜の朝にワークアウトをしたことはないのでこれは私の想像である。しかし、実際に運動をした後などは爽快な気分になる。
身体を使っているので、肉体が疲れ精神が爽快になる、というのは理解可能だが、たとえば1日忙しい外来などをして帰宅しているときも、身体は使っていないのにもかかわらず、肉体が疲れ精神が爽快、という状況は生じるように思う。
一方で、肉体の調子の良さ、というのは自覚しづらいようにも思う。普段からワークアウトなどをしていれば、今日は妙に身体が動く、といったところから自覚できるのかもしれない。(ワークアウトワークアウトうるさいのだが、実際ワークアウトがどういう活動を指しているのか、実のところは理解していないので許してほしい)
かつて剣道をしていたときは、妙に身体が動くな、というところから、そういえば昨日はよく寝たし身体の調子がいいのかな、などと間接的に調子の良さを自覚していた気がする。
つまり、これは私の場合だが、身体の疲れは感じやすいが精神の疲れは感じづらく、身体の調子の良さは感じづらいが精神の調子の良さは感じやすい、ということになる。
と、書いてみて、本当にそうだろうか、という考えも浮かんでくる。疲れた、というとき、感じているのは身体の疲れだけれども、それに伴って精神もぼんやりとしている気がするからである。
「疲れ」といったとき、身体のことなのか、精神のことなのかは明確になっておらず、その境界は曖昧なまま、ただ「疲れた」感じがしているのだと思う。
こういう身体のことなのか、精神のことなのか曖昧な言葉は、翻って診療では結構役立つ感覚がある。
たとえば「身体化」という症状を扱う時、精神は抑圧されて感じられないことが多いため、身体に関する言葉で、心にアクセスするルートを探ることがある。
そういうとき、「痛い」とか「しびれる」とかだと心にアクセスしづらいのに対して、「疲れ」とか「苦しい」とかいう曖昧な言葉だと、身体のことをいいつつ、心のことをいうことができる感覚がある。
このあたり、なんとなくやっているのだが、もう少し意識的にやることもできるなと思っていて、また考えをどこかに記せたらいいと思う。
数年前に書いた本ですが、いちおう参考文献です。
さて、もう7月になる。
偽者論の発売まで1ヶ月と少し。これから作業工程や、各種発表など、ここをつかっていろいろできたらいいなと思っています。
群像7月号「天気予報士エミリ」もよろしくお願いします。
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