見出し画像

文法とか類句とか二の次だよ。その句が真にあなたの言葉ならそれだけで尊い。ー鶴亀杯に寄せてー

みんなの俳句大会『鶴亀杯』始まっています!ホストなのに全然参加できていなくて申し訳ないです。

少しでも俳句のために、鶴亀杯を運営してくださっている皆様のために。

私が経験した俳句のことについて。ちょっとお話させていただきたいと思います。雑文でちょっと長いですが、誰かの俳句熱のスイッチになれば幸いです。

早速ですが皆さん俳句って知っていますか?そう、伊藤園のお茶のラベルに載っているあれです。
現在俳句は歴史的に見て黄金期に入っているといっても差し支えありません。
テレビ。広告。新聞。SNS。
見渡してみれば17音がそこら辺に転がっています。俳句が日常に溢れる時代、こんな時代はかつてありませんでした。

でも皆さんの周りに、「俳句が好き!」って公言している人いますか?あんまりいないと思います。
それはなぜか、俳句って趣味として微妙だからです。合コンで「趣味俳句!」というと、話はできるけど、その後の展開は望めないぐらい微妙です。
まあ、そりゃそうですよね。俳句好きなんて言われてなんて返事をすればいいんでしょう。
だから隠します。微妙な空気感になるのが嫌で、公言しません。
私も俳句を始めたての頃はそうでした。周りに言わず、コツコツ一人で本を読み、あーだこーだと唸りながらノートの端に自句を書き溜める日々を送っていました。

そんな生活を続けていたある日のこと。文芸好きの友人が飲み席でこう言いました。「俳句はすでに底の知れた、100年後には滅びる文学だ。熱中するだけ無意味だ」と。

理由は簡単です。「あああああ あああああああ あああああ」から「あああああ あああああああ ああああい」と作り、「んんんんん んんんんんんん んんんんん」まですべて試せばそれが俳句の全てだからです。

酔いがさめるほどの衝撃でした。確かに言われてみればその通りです。コンピュータですべての文字列を試行させれば、俳句はそれで終了です。
同音異義語があるとはいえ、意味が通じる言葉の並びはある程度限定されてきますし、友人の言う通り100年もすれば、いや100年を待たず俳句は滅びるかもしれない。
その時の恐怖と言ったらありませんでした。友人たちの猥談に適当に相槌を打って、笑いながら、頭の中では「俳句は滅びる。無意味だ」という言葉がずっと反芻していました。

帰り道。それまでの俳句への熱が嘘のように引いていくのが分かりました。俳句が溢れた世界で、俳人がほとんどいない理由はこれなのだと思い至りました。つまりは「行く末の知れたものに熱中する愚か者はいない」ということです。
俳句の世界のパイの大きさはあらかじめ決まっていました。文字列のパターンが有限である以上、先人たちが大きく食いちぎっていき、時代が進むにつれて、後の俳人たちは先輩たちが手を付けなかった、あるいは一蹴したパイを細々と食っていくしかないのです。
そしてパイはやがて、すべて食い尽くされる……

私は俳句をやめようと思いました。こんなものに熱中したところで、先はない。それならほかにも有意義な趣味がいくらでもあるだろう?と。
家に着くと俳句関連書籍を段ボールに仕舞い始めます。すべて売ってしまおうと決心しました。


そんな時、偶然一冊の本が段ボールから零れ落ちます。私はその本を手に取りました。タイトルに『アウトロー俳句』とありました。それは俳句関連書籍のまとめ買いをした時の一冊でした。
私はなんとなくタイトルに惹かれ、適当にぺらっとページをめくります。そこにはこんな句が載っていました。

『ウーロンハイたった一人が愛せない』北大路翼


その日二度目の。そして一度目の時とは比にならない衝撃を受けました。私は間違っていた、そして間違っていなかったのです。
俳句は趣味ではなかったったのです。俳句とは『人生』なのだと思い知りました。

俳句は人生、それぞれの詠み手の生き方そのものです。その句がすでに誰かによって詠まれた句であっても、それはそんなに意味のないことです。
その時に私が詠んだ。その事実こそが重要なのです。

私は自分のことを少し過大評価していたのかもしれません。私は個人が絶対の存在だと思っていました。故に何かオリジナルな、私にしかできない何かをしなければならないと本気で思っていました。そしてその絶対性を示すものが自分にとっての俳句だと確信していました。

しかし、俳句は有限であり、唯一無二のものではない。自分が作った渾身の句は先人、あるいは後世のだれかが作るものと一言も違えず同じかもしれない。

そんな対立するテーゼが自分の中で芽生え、このギャップを解消するため、私は「俳句=無意味」とすることで、個性の絶対性を示そうとしていたのです。
しかしそれは誤りでした。人間は唯一無二ではない。人間は代替性に溢れた存在であるという命題が真でした。そしてそれは決して後ろ向きなことを意味しない。

私は震えました。なんてすばらしいことののだろうと思えました。過去に、そして現代に、そして未来に自分と同じような思考をし、喜びを、怒りを、悲しみを感じてきてた人間がいるのです。時代や場所を超えて、17音で誰かの人生と私の人生が完璧に交差するのです。

「やあ、はじめまして」
「どうも、はじめまして」
「私はたった一人の女性が愛せないのです」
「ええ、わたしもたった一人の女性が愛せなくて、苦悩しています」
「この気持ち、分かってもらえて嬉しいです」
「私も嬉しいです」
「それでは、またいずれどこかで会いましょう」
「ええ、またいずれどこかで。その時まで幸運を」

そうして、二人はまた自分の人生を歩き出す。もう二度とその先、その道は交わらないかもしれない。しかしそれでいい。振り返ればあの人の道にこの道は繋がっている。その事実がある限り、人間は孤独ではない。
そしてその交差点に刻まれた名こそが俳句です。道に疲れた時、その俳句を見て思い出します。私はあの時一人ではなかった。同じ感情共有していた。そしてあの人は自分の道を突き進んでいる。その事実が私を突き動かします。倒れるところまで行こう。

人生が急に軽くなった気がしました。人生単独行だとばかり思っていましたが、違いました。人生自分の手で切り開かなければなりません。手助けはありません。しかし、だれかがそこにいてくれたという気配だけで人間は生きていていいのだと思いました。

自分が唯一無二の作者ではない。俳句の真の面白さはここにあります。
オリジナルでありオリジナルでない。およそ個性を尊重する近代文芸と逆行するようなこのスタンス。個性が大きく叫ばれる現代にこそ俳句は必要なのではないか。そう思います。

ちなみに、「あああああ」の友人の説ですが、改めて考えたらこの説も間違いだと気が付きました。何故なら「言葉とは常に進化し続ける存在」だからです。
古語の「あさまし」と現代の「あさまし」では伝えてたいところがずいぶん変わりますし、第一平安時代には「ツイッター」なんて言葉は存在しません。人間が存在する限り、時代によって新しい観念が生まれ、新しく言葉が生まれ、ある言葉は意味を失っていくでしょう。
つまり、枯渇することがないのです。俳句というたった17音の文芸は、永遠に尽きることがありません。そして、そのことは逆説的に、「この句こそ完璧だ」という絶対的な句が存在しないことも示しています。勿論読み手の性格や生い立ち、考え方なんかでも言葉の意味するところは変ってきます。

人間はシンプルなものに、奥が深いものに惹かれるようです。
フェルマーの最終定理がその簡潔さと難解さ故、多くの数学者を魅了し続けたように、俳句もきっと、多くの人間をきっと魅了し続けるでしょう。

しかし俳句には絶対解がない以上、フェルマーの最終定理よりも厄介かもしれません。

長文になりました。申し訳ないです。まあ、あーだこーだ言いましたが、とにかく気軽にまずは俳句を始めてもらえたら幸いです。そして誰かの人生の一助に俳句がなればさらに幸いです。今後とも俳句をよろしくお願いいたします。


とりあえず俳句の作り方と、選句の時のポイントの記事をを添付しておきます。(過去のみんなの俳句大会の記事)。気になったら読んでやってください。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!楽しんでいただけたら幸いです。また、小生の記事は全て投げ銭形式になっています。お気に入り記事がありましたら、是非よろしくお願いします。サポートやスキも、とても励みになります。応援よろしくお願いいたします!