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創作の糧(皆様の気になった記事を紹介)

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ライティングや創作のヒントになるような記事。特に再読したい記事をスクラップしています。素晴らしい記事を集めています。ご参考になれば幸いです。
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#俳論風エッセイ

俳の森-俳論風エッセイ第24週

百六十二、作者の視点今回は、山口誓子の句を手掛かりに、作者の視点と句の迫力について考えてみたいと思います。 夏草に汽罐車の車輪来て止る       山口 誓子 掲句の迫力はどこからくるのでしょうか。それを考える手立てとして、原句の「汽罐車の車輪」を「蒸気汽罐車」に変えるとどうなるか、考えてみたいと思います。 夏草に蒸気汽罐車来て止る 如何でしょうか。多少の迫力は感じられるものの、原句のもつ、いままさに汽罐車の車輪が近づいてきて、眼前に止ったかのような迫力は消え失せてしまうでし

俳の森-俳論風エッセイ第23週

百五十五、独善句になっていないか自分だけにしか分からない句を独善句と呼ぶことにします。もちろん俳句は他人に読んでもらうことを前提に作るわけですから、はじめから独善句を作ろうなどという人はいないはずです。 けれども、結果的に独善句ができてしまうのは、何故なのでしょうか。その理由は簡単にいえば作者の勘違いということになりましょう。ここでは、例句をもとに、独善句について考えてみたいと思います。 電柱を丸呑みにして葛咲けり       金子つとむ 心根のやさしき人や月今宵     

俳の森-俳論風エッセイ第21週

百四十一、信頼ということ俳句という短詩文学が成立する背景には、ことばに対する信頼、さらにいえば人に対する信頼が横たわっているように思います。その信頼の上にたって、提示という方法によって感動の場面を描くのが、写生の方法ではないかと思うのです。 遠山に日の当りたる枯野かな       高浜 虚子 この句は何を言っているのでしょうか。自分が感動した場面を提示しているだけで、何故感動したのかは言っていないように思われます。いや、言えないと言ったほうがいいのかもしれません。もし、それ

俳の森-俳論風エッセイ第19週

百二十七、共振語についてーことばの実体化これまでにも、共振語について何度も述べてきましたが、共振語とは何か纏めて見たいと思います。そもそも俳句は、作者が季節に感動して生まれるものだとわたしは考えています。ある季節(季語)に、作者が出会うことがその引き金になります。 例えば、啓蟄という季語があります。二十四節気のなかでもニュースなどでよく取り上げられることばです。 陽暦では三月五日頃ですが、立春からひと月ほど経って、次第に陽気も落ち着いてくる頃です。子どもが幼稚園児の頃のこと