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俳の森-俳論風エッセイ第21週

百四十一、信頼ということ

俳句という短詩文学が成立する背景には、ことばに対する信頼、さらにいえば人に対する信頼が横たわっているように思います。その信頼の上にたって、提示という方法によって感動の場面を描くのが、写生の方法ではないかと思うのです。

遠山に日の当りたる枯野かな       高浜 虚子
この句は何を言っているのでしょうか。自分が感動した場面を提示しているだけで、何故感動したのかは言っていないように思われます。いや、言えないと言ったほうがいいのかもしれません。もし、それを言おうとすれば、俳句の文字数では到底足りないからです。
写生では、「いまここ」の作句現場から受け取った感動自体を描写するのではなく、感動をもたらした当のもの、つまり作句現場のなかから、感動に直結するものだけを取捨選択し描写するという方法をとります。
それが可能なのは、読者に対する暗黙の信頼があるからではないでしょうか。

一句は、読者にとって謎となって残ります。作者は、何故この句を詠んだのだろう。何が作者を感動させたのだろう。この句の背後にある、作者の言わんとしていることは何だろう・・・。この謎が、読者を立ち止まらせ、この句に引き入れるといっていいでしょう。

さて、掲句を読んだ読者は、何を思うのでしょうか。
遠山に当る日差しは、どこかしら人をほっとさせ、希望の象徴のようにも見えます。それとは裏腹に作者の立っている場所には日差しがなく、冷たい風が吹いているかもしれません。さらに、遠山は、人の目標のようにも見えます。はっきりと人を惹きつける目標です。
また、もっと即物的にいえば、同じ枯野といっても、日が当れば暖かく感じられるということもあるでしょう。枯色は、どちらかといえば暖色に近いからです。

しかし、作者は、本当は何を言いたかったのでしょうか。わたしには、どんな解釈を聞かされても、作者の虚子は、その全てに対して、「その通りだよ」と答えるような気がしてなりません。

俳句によって、擬似的に作句現場に立った読者は、その現場から様々のもの受け取るでしょう。いわば読者の数だけ、受け止め方は違うといっていいのかもしれません。そのような多様な受け止め方ができることが、俳句の持つ力、価値なのではないでしょうか。
それが詩情の正体です。全て説明がつくようなら、それはもはや俳句ではないといってもいいのです。


百四十二、現場証明―俳句の臨場感

俳句をつくるケースとしては、実際に現場で写生して作句する場合もあれば、兼題などで半ば強制的に作る場合もあるでしょう。
兼題の場合は、過去の記憶を繙くことになりますが、全く未経験の場合には、例句などを見て空想でつくることになります。

空想で俳句をつくることはあまりお勧めできませんが、兼題には、見知らぬ季語を知って季語の世界を広げる働きがあります。自分だけで句作りをしていると、どうしても使用する季語が偏ってしまうからです。
たまたま兼題で、自分にとって未知の季語に出くわしたら、実際にその季語に出合ったときのための予習のようなものだと考えれば、気が楽になります。

俳句では、それほどまでに実感ということが大事になってきます。それは何故かといえば、実感のないところに、感動は生まれようがないからです。
実感を臨場感といってもいいかもしれませんが、それは、その場にいなければ分からないことであり、空想や理屈で導きだしたものとは、明らかに異なるからです。
さて、以前に句会で雪女という兼題が出たことがありました。雪女は空想季語ですので、勿論誰も見たことは無い筈なのですが、雪女を育んだ自然の厳しさというものはあるはずです。
そのような雪に対する実感があるか否かで、句作りは変わってくるのではないでしょうか。
雪女闇に近づく笛の音          金子つとむ
わたしの空想句には勿論点は入りませんでしたが、この時の雪女の最高得点句は、次の句でした。
曲がり屋の梁のきしみや雪女       三代川次郎

わたしの句と、三代川さんの句はどこが違うのでしょうか。ポイントは、「梁のきしみ」ではないかと思われます。
曲り屋は知識でもでてきますが、梁のきしみには、実感が籠っているように思います。梁のきしみが、雪に対する恐れを具体的に示し、雪女を現出させる舞台を作っているといっていいのではないでしょうか。

実感の無い句は、どこか奇麗事で、つくりものに見えてしまいます。作句現場のなかで、あるいは記憶を辿るなかで、「きしみ」のようなキーワードを見つけることが、とても重要になってくるのです。
実感はその場にいなければ知り得ない作者の小さな発見といっていいかもしれません。
やはり、作者の実感から発せられたことばが、読者のこころを打つのではないでしょうか。


百四十三、場所情報の不要なケース

季語には季節の情報とともに、大まかな場所情報が含まれます。例えば、冬菊といえば冬に咲く菊の花ですので、開く場所もおおよそ見当がつきます。
従って、季語とは別に場所や時間の情報を挿入しなくても、句としては特に問題がないことになります。

さらに進んで、次のようなケースでは、場所の情報は寧ろ不要とさえいえるのではないでしょうか。
それは、句意が、あるものの真実に迫るような場合です。思いつくままに、例句を上げてみましょう。
冬菊のまとふはおのが光のみ       水原秋櫻子
白菊の目に立て見る塵もなし       松尾 芭蕉
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男
流れゆく大根の葉の早さかな       高浜 虚子
滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半

俳句の5W1Hを考えてみると、いつ(W)、どこで(W)を季語が受け持ち、だれ(W)は通常わたし自身で、何をした(見る、聞くなど)が省略可能ということになれば、俳句は、
季語+HOW(季語がどうだった)
を述べるだけで、成立することになるでしょう。
上述の例句は、全てこの形です。句意が本質に迫るとき、冬菊がどこにあったとか、冬の水の場所がどこだったかとか、滝の名前などは、むしろ不要な情報といえましょう。

季語がどうだったという文章は、別のことばでいえば作者とっての季語の発見です。俳句は約めていえば、季語の発見の詩ということになります。
そこで、今度はそれぞれのHOWの部分に着目してみると、そこには、作者ごとの類稀な発見(認識)を見てとることができるでしょう。季語の発見こそが、一句をなすための作句動機だったのです。

さて、対象を見つめることは、対象を見つめる自分自身を見つめることでもありましょう。そのように対象が見えたということのなかに、作者の心境が焙りだされてくるのではないでしょうか。
秋桜子の句からは、どこかしら孤高の姿が感じられます。草田男の句からは、やや病的ともいえる程、極度に張り詰めた感覚が感じられます。
また、夜半の句からは、力強いいのちの躍動を感じることができるでしょう。

自分を偽らずに対象と向き合い、それをそのまま表現することで、俳句は作者のいのちの実相を自ずから映し出すものといえるでしょう。


百四十四、すばらしき合評

倉田紘文氏の高野素十『初鴉』全評釈(文学の森)のなかに、素十の次の句に対する合評の場面がありますので、まずご紹介したいと思います。

摘草の人また立ちて歩きけり       高野 素十
〔評考〕この句は発表当時から話題の多い句である。いくつかの批評をあげてみよう。
○ 水原秋桜子 この句はある日われわれの句会の席上で出来たのであるが、私は見落して採らなかつた。この句は誰も見逃し易いやうな極く平凡な叙法が用ゐられている。或はあまり叙法が平凡な為に内容さえも平凡だとも思われ得る句である。実を言えば今でも少し平凡だと思つているのである。
○ 池内たけし 句意は今更申すまでもない。先に虚子先生が平明にして余韻ある句と云ふことを唱道せられたやうに記憶してゐるが、此素十君の句の如きは平明にして余韻あると云ふ点に於ても、更に又技巧も働いてゐる点でも優れた句であるやうに思はれる。同時にこの句の作者素十君にも敬服するが、かういふ俳句を選ばれる虚子先生によつて今日ある俳壇に安住して居られる気持ちが特にする。
○ 鈴木花蓑 私も此句をはじめてよんだ時に秋桜子さんの言はれた如く、平凡な句だと思つた。一体どこがいいのだろうと思つて繰り返し繰り返し味わつてゐるうちに、やうやくわかつたやうな気がした。
○ 高浜虚子 すつきりとした感じのする句である。此句のみならず素十君の句はさういふ感じのする句が多い。それといふのも写生の手腕がたしかだからである。要領を得てゐる写生であるからである。私がよく言ふ、抹殺しまた抹殺し、最後に只一つを残してこれを描くといふのは此間の消息である。(太字筆者)

これを読んでいると、句の評価のみならず、各人の俳句に対する考えや態度といったものがよく分かって、とても面白いと思いました。
そして、この句の作者である素十を羨ましく感じたのです。それというのも、このように真摯に真正面から句を取り上げ、自身の信ずるところを正直に表明してもらえるというのは、作者にとってどれほどの喜びであろうかと想像するからです。
翻って、自分の俳句をこれほど批評してもらったことが、果たしてあっただろうかと思うのです。

この句評からは、俳句というものを通して、人々のたましいが純粋に触れ合っている感じがします。俳句という文芸は、それほどに人々を魅了するものだということを、あらためて感じたのでした。


百四十五、季重り?

今回は、高野素十の次の句を取り上げてみたいと思います。蝶といえば春なのに、春の蝶と何故いったかということです。このことは、季重りを考えるうえでのヒントになるのではないかと考えたからです。

方丈の大庇より春の蝶          高野 素十
まず、倉田紘文氏の高野素十『初鴉』全評釈(文学の森)から、掲句の〔評考〕の部分を引用します。
一木一草もない相阿弥作といわれる石庭に臨んでの作。この句はぶきみなまでの静と、軽やかなる蝶の動、大庇の厚い暗さと蝶の明るさとの色彩の鮮やかさとが、極めて印象的である。
“蝶”はそれだけに春季であるのに殊更に「春の蝶」としたことについて、大野林火氏は「〈ハル〉の張った音からくる大庇の上の空の青さを引き出すためである。〈春〉はこの場合、虚辞であるが必然性がある」といい、楠本憲吉氏は「わざわざ〈春の蝶〉ということによって、〈春〉のおとずれを感じさせている」という。(中略)
「方丈の大庇より春の蝶 の句も、はじめは蝶一つであったのでありますが、夫では据わりが悪くどうしても満足出来ずに、遂に春の蝶として出来上がったと聞いてをります」(「素十さん」斉藤庫太郎=「ホトトギス」昭和二十四十月号)

それでは、掲句と初案では、どこが違うのでしょうか。なるほど、上五中七の重厚なフレーズに対し、「蝶一つ」ではどこか釣り合わない感じがします。
「春の蝶」とすれば、春の生命感を体現している蝶ということになり、見事に一句は釣り合うように思われます。この「春の」という措辞は、蝶といえば春に決っているけれど、「そのまぎれもない春の」「蝶」という風に、蝶を強調するために使われているのではないでしょうか。

季重りは、広辞苑では、「俳諧で、一句のうちに季語が二つ以上含まれること。好ましくないこととされる。」とあります。季語二つ以上が季重りというのは、とても分かりやすい定義です。問題は、季重りといえば常につきまとう否定的な見解です。

「春の蝶」は、季重りは好ましいとか好ましくないとか予断すべきものではなく、一句のなかで都度吟味されるべきことを示しているのではないでしょうか。写生の末に生まれた俳句を味わう過程で、季重りの良し悪しが判断できればいいのではないかと思います。
大根を蒔いて蛙のとんでくる       高野 素十
畦塗りに雪一二片通り過ぐ        〃
もの種を買ひぬ燕ひるがえり       〃


百四十六、季重り?再び

前回、素十の次の句を取り上げ、一つの季語が他の季語を補強する様子を見てきました。
方丈の大庇より春の蝶          高野 素十
季重りは、一般的には季語のコントロールが難しいため、回避すべきものと受け止められていますが、素十の句のように季重りが句を磐石のものにしている例も多数見受けられます。そこで今回は、季語同士の関係に着眼して、季重りの句を考えてみたいと思います。

目には青葉山ほととぎす初鰹       山口 素堂
ここで巧みだと思うのは、目には青葉という六音の詠み出しです。これから初鰹を食そうとする場面でしょう。その席について、おもむろに目には青葉と詠い出したのです。当然、山にはほととぎすというのは、その声のことでしょう。さて、そのようにして食する初鰹の味は・・・。
ここでは、青葉も時鳥も初鰹を食するための最高のお膳立てを演じているように思われます。
句意は、どこを見ても目には青葉(視覚)、山には時鳥が啼くようになって(聴覚)、やっと初鰹の季節が到来した(味覚)ということでしょう。作者は、初鰹を食せる喜びを全身で表現しているのではないでしょうか。
秋天の下に野菊の花弁欠く        高浜 虚子
この秋天の広がり、空気感はいかばかりでしょう。野菊は花弁欠くといいながら、それは少しも欠点ではなく、むしろ野菊としていのちを謳歌する精一杯の姿のように見受けられます。
秋天とその元にひっそりと咲く野菊は、堂々と渡り合っています。このような季語の関係は、むしろ肯定的に承認されるべきではないでしょうか。

畦塗りに雪一二片通り過ぐ        高野 素十
畦塗は春の季語ですので、この雪は春の雪です。頬かむりして、鍬で畦塗りをしているのでしょう。季重りですが、この句には、少しも違和感はありません。むしろ、普通に見られる光景を射止めた句といっていいでしょう。
畦塗は、まぎれもなく春のものですが、雪は、冬も春にも降ります。それゆえ、これは畦塗の句なのです。塗畦と雪の対比が殊更美しく感じられます。

もし端から季重りを回避しようとすれば、これらの句は決して生まれなかったのではないでしょうか。機械的に季重りを回避しようとするのは、少し勿体無いような気がします。
むしろ、季重りなど一切かまわずに作句して、作品が出来上がったときにその有効性を検証するだけでいいのではないでしょうか。季語の世界では矛盾しても、写生した自然の世界に、一切矛盾はないのですから。


百四十七、季重りの句の分類

季重りが敬遠される理由の一つにその良し悪しが判断しにくいということがあるようです。しかし、いくつかの視点を導入することで、季重りの句は、ほぼ三つの種類に大別することができます。

① 同じ季節の季語が二つ以上ある場合でも、作者の眼前にあり感動の中心にあるものが季語となるでしょう。作者の発見したものや、「他でもない」「紛れもなく」等のことばを付けてしっくりくるものが季語といえましょう。
永き日も囀りたらぬひばり哉       松尾 芭蕉
棒鱈の荷も片づきぬ初燕         石井 露月
秋風や案山子の骨の十文字        鈴木 牧之

「永き日も囀りたらないのは、他でもないひばりだよ。」「棒鱈の荷が片付いたころ、初燕に気付いたよ。」「骨が十文字の破れ案山子に吹いているのは、紛れもなく秋風だよ。」などとなるでしょう。

② 同じ季節の二つ以上の季語が、えもいわれぬ緊張感を醸し出す場合があります。以下の句では、季語が二つながらに季語として働いています。季語を他のことばに置き換えてみると、それがよく分かります。
雪空に堪へて女も鱈を裂く        細見 綾子
学僧に梅の月あり猫の恋         高浜 虚子
春暁や音もたてずに牡丹雪        川端 茅舎

綾子の句は、雪空はまるで女の心象風景のように思われます。仮に雪空を青空としたらどうでしょう。堪えての措辞は、雪空でこそいきるのではないでしょうか。
虚子の句は、学僧にとっての梅と猫にとっての恋との対比のように思います。梅の月という季語はありませんので、この月は、歳月の意味でしょう。この花も梅でなくてはならないように思われます。
茅舎の春暁に降る牡丹雪は、その白さが薄明かりのなかで幻想的に際立ってくるように思われます。

③ 季節が異なる場合は、作者がどの季節にいるのかを問うだけで、問題は解決します。季語は、便宜上季節が特定されていても、次の季節まで残る昆虫や、一年中見られる鳥や月などもあるからです。
小春日や石をかみ居る赤とんぼ      村上 鬼城
春の月ありしところに梅雨の月      高野 素十
夕月や納屋も厩も梅の影         内藤 鳴雪
秋風や吹き戻さるる水馬         高橋淡路女
四五人に月落ちかかるをどりかな     与謝 蕪村

俳句がいまここの地点から、作者の感動を詠むものだとすれば、一句の今が何時なのか、作者の感動は何かが分かれば、季重りの問題は解消するのではないでしょうか。


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