見出し画像

俳の森-俳論風エッセイ第24週

百六十二、作者の視点

今回は、山口誓子の句を手掛かりに、作者の視点と句の迫力について考えてみたいと思います。
夏草に汽罐車の車輪来て止る       山口 誓子
掲句の迫力はどこからくるのでしょうか。それを考える手立てとして、原句の「汽罐車の車輪」を「蒸気汽罐車」に変えるとどうなるか、考えてみたいと思います。
夏草に蒸気汽罐車来て止る
如何でしょうか。多少の迫力は感じられるものの、原句のもつ、いままさに汽罐車の車輪が近づいてきて、眼前に止ったかのような迫力は消え失せてしまうでしょう。

両句の違いは、車輪の一語にあるのではないかと思われます。この一語が入ることで、文脈上、来て止るものは汽罐車ではなく、車輪そのものとなります。車輪だけが、一気にクローズアップされるのです。
このとき、作者の視点は夏草とほぼ同じ位置に瞬時に移動します。そして、迫って来る車輪に向き合うことになるのです。
単に蒸気機関車が来て止るのであれば、遠くで見ていてもいうことができますが、車輪が止るとは、眼前で見ていなければなかなかいえないのではないでしょうか。
また、来て止るという措辞は時間経過を表し、宛ら映画のワンシーンのようでもあります。

ついにその時が来て、蒸気汽罐車の鉄の塊と、夏草が間近で対峙することになります。片やエネルギッシュな鉄の塊、対するのは、夏草の旺盛な生命力といっていいかもしれません。
掲句は大阪駅構内での連作の内の一句と言われていますが、夏草だからこそ、汽罐車とみごとに対峙しているといっていいのではないでしょうか。

このように、掲句の迫力は夏草とほぼ同位置を占める作者の視点から生まれたといっても過言ではないでしょう。
誓子は、この視点を意図的に獲得したものではないかと思われます。何故なら駅の構内で実際にその立ち位置にたつことは不可能に近いと思われるからです。

この視点の獲得により、読者は、さながら夏草になったかのように、汽罐車からの風も熱気も感じることになるのです。このような臨場感のある句が可能なのは、ひとえに視点の位置によるものと思われます。

極端な視点の操作は、写生句を逸脱する危険を孕んでいますが、次の句では明らかに意図的な視点操作が行なわれています。
渡り鳥みるみるわれの小さくなり     上田五千石


百六十三、擬人化の成功例

擬人化は主観表現の最たるもので、できるだけ避けるように指導されますが、擬人化で成功した事例はないのでしょうか。また、擬人化の成功させるポイントはどのあたりにあるのでしょうか。いくつかの例句をもとに考えてみたいと思います。

以下は人口に膾炙された句ばかりですので、成功事例ということができます。
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々      水原秋桜子
芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男

それぞれの句でどこが擬人化なのかを確認し、何故その擬人化が受け入れられるのか、考えてみたいと思います。

秋桜子の句は、赤城山での作といわれています。「落葉をいそぐ」が擬人化です。啄木鳥は秋、落葉は冬の季語ですが、「落葉をいそぐ」とすることで、季節が秋であることがわかります。これから冬に向う切迫した感じが「落葉をいそぐ」にあります。
高原の実景を「落葉をいそぐ」ということばが余すところなく捉えており、啄木鳥の急かすようなドラミングとみごとなハーモニーを奏でています。

蛇笏の句は、芋の露が示すように、身近な見慣れた風景のように思われます。見慣れた山が、今朝は居住まいを正すように端整な姿になったというのです。
普段から見慣れている山だからこそ、作者はその変化にいち早く気づいたともいえましょう。
「正しうす」は擬人化ですが、逆にそのことにより、作者の山に寄せる愛着も、秋爽の山の佇まいも、より強く読者に迫ってくるのではないでしょうか。

最後は、草田男の句です。この句も蛇笏句と同様、「欺かず」の一語が冬の水の有り様をいっそう際立たせているように思われます。
「欺かず」はもちろん擬人化表現ですが、それが違和感なく受け止められるほど、読者はその景を容易に思い浮かべることができるでしょう。

「落葉をいそぐ」、「正しうす」、「欺かず」と見てきましたが、これらの擬人化表現に共通するのは、それが作者にとっては情景を表すための切実な表現だったということではないでしょうか。
そしてこれらの措辞により、実際の景がより鮮明に映像化されたということに、その成功の秘訣があるように思われます。
奥木曽の水元気なり夏来る        大沢 敦子


百六十四、視点の明確化

前々回で、作者の視点は句の迫力に関係することを述べましたが、句を作っていると視点が不明確な句ができてしまうことがあります。現場で写生していても、表現が追いついていないのです。
例えば、わたしは長い間、次の句の問題がどこにあるのか気付きませんでした。

寒鯉を褒美に上がる川漁師        金子つとむ
どうも句が平板で躍動感がないように感じられるのですが、その理由が何か、分からなかったのです。
しかし、あるとき、川はなくてもいいと考えて推敲を重ねるうちに、次の句ができあがりました。
寒鯉を褒美に漁師上がり来る       〃

この句ができたとき、わたしは初めて原句の欠点は、作者の立ち位置の不明確さにあることに気付いたのです。立ち位置の不明確さは、そのまま作者の視点の不明確さにつながります。
川を上がる漁師の姿を作者はいったいどこから見ているのでしょうか。作者はどこかにいるはずなのに、それが分かるような表現になっていなかったのです。
原句では勿論句意は分かりますが、作者と漁師との位置関係が見えてこないのではないでしょうか。

寒鯉を褒美に漁師上がり来る       〃
推敲句は、「上がり来る」とすることで、川を上がってくる漁師と向き合うように、作者の立ち位置を定めることができました。
推敲句は、誓子の「夏草に汽罐車の車輪来て止る」と同じ構造です。ただ、汽罐車の代わりに、漁師がこちらに向かってくるのです。
漁師がこちらに近づいてくることで、漁師の顔も寒鯉の大きさも次第に明瞭になってくる仕掛けです。ただ、やや散文的というのが難点です。

作者の視点を明確に打ち出すことで、句の現場、場面に臨場感が生まれます。それは、結果的に作者の視点に立つことで、読者もまた句を鑑賞しているからです。
句の現場に立つことができれば、読者も作者と同じように、漁師の誇らしい顔を覗き、寒鯉の艶やかな銀鱗を目撃することもできましょう。

場面を描く名手として、虚子をあげることができますが、虚子の次の句からは、その空気感まで伝わってくるのではないでしょうか。
彼一語我一語秋深みかも         高浜 虚子
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ        〃


百六十五、物が見えるということ

わたしたちが何かの目的に向かって行動しているとき、その目的にわたしたち自身が捉われていればいる程、わたしたちの眼はその目的達成に適ったものだけを認め、それ以外のものは素通りしてしまう傾向にあるようです。
卑近な例でいうと、空腹でどうしようもないとき、わたしたちは食欲を満たすことに急なあまり、その味についてはあまり頓着しなのではないでしょうか。
人生に目的をもつことは大切ですが、目標にばかり捉われてしまうと、いまここに、どんなに美しい花が咲いていても、恐らく見過ごしてしまうのではないでしょうか。

俳句は「いまここ」の文学です。「いまここ」に意識を集中しないと見えてこないものを詠います。一旦俳句を始めてみると、野辺の草花に心惹かれたり、美しい夕日に見惚れたり、雀のしぐさに愛らしさを感じたりします。
物が見える瞬間というのは、わたしたちの心が、その物に寄り添った瞬間といってもいいでしょう。

虚子は、客観写生について次のように述べています。『その眼、俳人につき』(青木亮人著、邑書林)より。
例えば桜の花を見る場合には、その花に非常に同情を持つ。あたかも自分が桜の花になったごとき心持で作る。すなわち大自然と自分と一様になった時に写生句ができるのです。

客観写生ということばに惑わされてしまうと、事物をただ客観的に描写するという風に受け止められがちですが、虚子は、そのまえに大前提があるのだといっています。
その大前提が、対象と一体となるということなのです。細部まで見つめるには、その物に同情する心がないとできないということでしょう。
しかし、対象と一体となった心持をそのまま表現したのでは、こんどは読者には伝わらないでしょう。
そこで、表現に際しては、一歩退いて客観的に表現するというのが、読者を想定した俳句の表現方法といえるのではないでしょうか。

対象と一体となるというのは、わたしたちの命が、花や虫や鳥の命を感じ、交歓するということではないかと思われます。虚子をして、客観写生真骨頂漢といわしめた高野素十は、写生について、こんなことばを残しています。『高野素十研究』(倉田紘文著、永田書房)より。
俳句と云っても写生と云っても要するところ、その根本はその人の心によるものである。心の至らない句、又はその心持の出ておらぬ句は良い俳句とは申し難いのである。
流れゆく大根の葉のはやさかな      高浜 虚子
甘草の芽のとびとび一ならび       高野 素十

百六十六、げんげ田-擬人化考

けやき句会で、次の句が話題になりました。
げんげ田に取り残さるる夕日かな     都賀さくら
わたしは採りきれませんでしたが、I氏が、特選に選ばれました。I氏の特選評をきいているうちに、わたし自身も初めてこの句のもつ詩情に気付きました。

I氏の特選評は要約すると以下のようになります。
掲句は、子どもたちが去って、夕日だけが取り残された景を詠んでいる。子どもたちは、それまでお日様と一緒にげんげ田に遊んでいた。やがて夕方になって、子どもたちが帰ったあとに、夕日だけが寂しげに残っている・・・。

一方で採らない読者がいて、他方で特選に押す読者がいる。この極端な受け止め方の違いはどこからくるのでしょうか。簡単にいえば、読者によって句の読まれ方、あるいは読み解き方が違うということでしょう。

文法的にいえば、げんげ田に取り残されるのは夕日であり、通常は取り残されるものは人ですから、作者は夕日を人のように扱っている、つまり擬人化していることになります。すると、問題はこの擬人化が果たして成功しているかどうかということになりましょう。

I氏は、げんげ田に纏わる思い出がたくさんおありだったのでしょう。そして、「取り残さるる夕日」ということばがキーワードとなって、I氏の記憶を一気に呼び覚ましたものと思われます。
ここで、「取り残さるる」ということばの働きを見てみましょう。このことばは、それまでげんげ田に人がいたことを暗示しています。
それまで人(子どもたち)がいたのにいまはいなくなってしまった状況を「取り残さるる」といったのです。問題は、お日様も子どもたちと一緒に遊んでいたという思いをどこまで共有できるかということになりましょう。

情報を追加して、掲句の擬人化を避けることも可能です。例えば、
子ら去りてげんげ田に日の耀へり
作者にとっては「取り残さるる」が最もいいたいことだったと思いますので、この案は受け入れ難いかもしれません。ただ、伝えたいこととその表現にどう折り合いをつけるかは、実は一句ごとに悩ましい問題なのです。

げんげ田に遊んだ記憶が、掲句にとっての共感の母胎だとするならば、その他人の記憶をどう呼び覚ますのか。
名句と言われる句には、そうした記憶を一気に解き放つような優れたイメージ喚起力があるように思われます。

百六十七、季語と表現領域 その一

あらゆる感動を俳句で表現したいと思うのは、貪欲すぎることでしょうか。また、それを実践してみるのは、無謀なことなのでしょうか。
ここでは、表現したいことがまずあって、それを俳句で表現しようとするとき、季語をどのように働かすことができるのか考えてみたいと思います。

最初に、感動が季節と無関係な場合と、季節に起因する場合に分けて、それぞれについてどのような季語の利用が可能なのかを見てみたいと思います。
① 季節と無関係な感動を表現する
(ア) 無季で表現する
(イ) 川柳で表現する
(ウ) 季節にかこつけて表現する(季語を引き当てる)
② 季節に起因する感動を表現する
〈既存の季語の情趣が肯える場合〉
(ア) 季語の情趣を味方につけて表現する
〈既存の季語の情趣が肯えない場合〉
(イ) 季語の情趣に新たな情趣を加えて表現する
(ウ) 新季語を創造する
(エ) 無季で表現する
このように見ると、季語はほぼあらゆる表現領域をカバーできることばといっていいのではないでしょうか。

①の季節と無関係な感動とは、恋愛や災害、事故、生死などの場合を想定しています。芭蕉の時代、いわゆる季語のない雑の句といわれたもののなかには、次のようなものがありました。
〔神祇・釈教・無常・恋・旅・述懐・懐旧・名所〕
季節に関係なくいつでも起りうることですので、季語を付加するには及ばないと考えられたのでしょう。無季の例句を上げてみましょう。
しんしんと肺碧きまで海の旅       篠原 鳳作
戦争が廊下の奥に立ってゐた       渡辺 白泉

また、季節とは直接関係のない感動であっても、わたしたちは季節のどこかの時点にいるわけですから、季語にかこつけて詠むことは可能でしょう。(①-ウ)四季の変化を人の一生になぞらえてしまう傾向があるように、わたしたちには、季語との特別な親和性があるように思われます。

②の季節に起因する感動を表現する場合は、例え既存の季語のなかで肯へるものが無かったとしても、既存の季語の情趣を変革したり(②-イ)、新たな季語を創造する(②-ウ)という選択枝が残されています。
時代の変遷のなかで既存の季語に新たな情趣が付加され、新しい情趣が発見されて新しい季語が生れる。これらは皆、俳句作品を通してなされていくことなのです。

百六十八、季語と表現領域 その二

前回無季俳句の例句として、篠原鳳作の
しんしんと肺碧きまで海の旅       篠原 鳳作
をとりあげましたが、今回は、この句について、少し掘り下げてみたいと思います。

わたしには、掲句には夏の季感があるように感じられます。「しんしんと」は、通常、「しんしんと雪が降る」などのように使われ、ひっそりと静まりかえっているさまをいいますが、一つの事柄が延々と続くような印象を与えます。
掲句では、穏やかな大海原をゆく船上にあって、どこまでも紺碧の海をみつめ、海の気を吸っていると、肺の中までその紺碧に染まるようだといっています。
夏の季感を感じさせるのは、「碧」の効果でしょうか。それは、わたしの夏の船旅の経験がそう感じさせるだけかもしれません。しかし、作者にとっては、それは海の旅そのもの、いわば季節を超越した海の旅そのものだったにちがいありません。それ故、無季を選択したのではないでしょうか。

若山牧水の歌に、
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
がありますが、ここにも、ひたすらな青の世界があります。それだけに、白鳥が切なくも美しいのでありましょう。

海の旅の句は、やはり夏の海というような括弧つきの海の句ではなく、海そのものの句なのだと思います。このように、俳句で読みたいことのなかには、季節を超越していて、季語というものがそぐわないものがあるのも事実です。
表現行為として純粋に俳句をとらえると、始めに季語ありきなのではなく、結果的に季語の有無が決まるというのがほんとうではないかと思われます。つまり、
・ 感動したことを五七五にまとめる
・ 感動の引き金として季語の情趣があれば、季語を置く
・ 感動に季語が関わらなければ、置かない
・ 結果、有季又は無季の句ができあがる

問題は、季語の有無ではなく、掲句のように何かを表現しえているか否かということなのではないでしょうか。
自分が感動したことを表現するということを考え方の最上位におくと、季重りの問題も、表現として伝わる表現になっていればいいということになるのではないかと思われます。
予め、有季だ無季だと決めつけるのは、表現行為ということから見た場合、かなり不自由な考え方といえないでしょうか。何かを表現したいときに、季語の要不要などほんとうはどうでもいい。問題の中心は、むしろ感動をどう表現するかに尽きるように思われます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?