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俳の森-俳論風エッセイ第19週

百二十七、共振語についてーことばの実体化

これまでにも、共振語について何度も述べてきましたが、共振語とは何か纏めて見たいと思います。そもそも俳句は、作者が季節に感動して生まれるものだとわたしは考えています。ある季節(季語)に、作者が出会うことがその引き金になります。

例えば、啓蟄という季語があります。二十四節気のなかでもニュースなどでよく取り上げられることばです。
陽暦では三月五日頃ですが、立春からひと月ほど経って、次第に陽気も落ち着いてくる頃です。子どもが幼稚園児の頃のことですが、早くも庭で団子虫を見つけて、見せに来たことがありました。そこで、
啓蟄や子のてのひらに団子虫       金子つとむ
と詠んでみました。
久しぶりに見た団子虫がどこか愛しいように思えたからです。道理で今日は啓蟄と納得した次第です。

作者が言いたいことは、「啓蟄の団子虫」ということに尽きるでしょう。草花にとっては食害をもたらす団子虫ですが、くるりと丸まった姿にはどこか愛嬌があります。
この「団子虫」のようなことばが、共振語です。季語と共振語は、作者が発見して一句のなかに置いたことばです。この二つのことばの発見こそが作者の感動の源であり、その響き合いこそが一句の命なのではないでしょうか。

どんなことばも、はじめは平均的な意味に受け止められます。団子虫といえば、どこにでもいる子どもが好きな虫ぐらいのイメージです。
しかし、団子虫が、啓蟄という季語と出会う事により、実体をもつに至るのです。啓蟄には、春になって地中の生き物たちが動き出す、いのちの躍動が捉えられています。
その感動が子にもあって、わざわざわたしのところまで見せに来たのでしょう。このように団子虫は、季語と出会うことでいのちの質量を獲得していくのです。

共振語は何も特別なことばではありません。ありふれたことばが、季語と出会うことにより、共振語となるのです。ただのことばが、ただならぬことばとなって躍動し、季語と共振し出すのです。
一句のなかに置かれた共振語は、作者の感動(詩情)を伝える働きを担っています。何故なら、詩情とは、まさに季語と共振語のハーモニーだからです。

作者の感動の結果として一句は作られ、作者が季語を発見した証として、共振語が置かれているのではないでしょうか。作者がおやっと思って見つけたものが共振語だといえるでしょう。


百二十八、子規の季重りを考える

広辞苑で季重りを引くと、「俳諧で、一句のうちに季語が二つ以上含まれること。好ましくないこととされる。」とあります。この説明では、季語をどう解釈するかで、意味が変わってくるように思います。
季語を単に歳時記のことばとすると、以下の子規の句は、全て季重りの句です。すると、何故子規は、好ましくない季重りを犯しているのかという疑問が残ります。

今一つの解釈は、季語の意味を、季語として働いていることばの意味に解釈する場合です。ことばとして季語が二つ以上あっても、季語として働くことばが一つならば問題ないことになります。
それでは、季語として働いているかどうかを簡単に見分ける方法はあるのでしょうか。俳句は、「いまここの感動を詠む」という写生の前提に立って考えてみましょう。尚、季語の特定は、作者の自解に拠っています。

先ずは、現在と前の季の景物が同居する場合で、自然界にはよくあることです。現在の景物が季語になります。
あたたかな雨がふるなり枯葎       正岡 子規
季語:暖か(春)。枯葎(冬)は、前の季節の景物です。少し嵩の減った草叢にあたたかな雨がふっています。

問題は、二つとも同じ季節の場合です。その場合は、作句現場「ここ」がどこであるかがヒントになります。
おお寒い寒いといへば鳴く千鳥      〃
季語:千鳥。作句現場は千鳥の鳴く浜辺でしょう。千鳥を見にきて、寒い寒いといっているのです。
枯菊にどんどの灰のかかりけり      〃
季語:左義長。現場ではどんど(左義長)が燃えている。偶々そこにあった枯菊に灰がかかっているのです。
蜜柑剥いて皮を投げ込む冬田かな     〃
季語:冬田。現場は冬田。投げ込んだ蜜柑の皮と冬田の対比が一句の眼目でしょう。

しかし、以下の例句では、作者の感動の所在を考慮する必要があります。
一籠の蜆にまじる根芹哉         〃
季語:芹。蜆(春)も根芹(春)も眼前にあります。蜆の黒ずんだ色合いのなかに、鮮やかな根芹を発見したことが句の眼目ではないでしょうか。
かたばみの花をめぐるや蟻の道      〃
季語:酢漿草の花。ともに眼前にありますが、蟻の道さえも酢漿草の花を迂回しているところに、しぶといこの花の情趣があるように思います。
こうしてみると、子規は眼前の景物から受けた感動をそのまま詠んでいる(写生)だけだともいえるのです。

百二十九、作者の立ち位置、ふたたび

百十話で、写生をすることで立ち位置の明確な句ができるという話をしました。
これをもう少し厳密にいうと、写生によって得られた表現が的確であれば、その表現によって作者と対象との位置関係が焙り出されてくるということです。

滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半
掲句で作者は何処にいるのでしょうか。
手掛かりとなるのは、「水現れて」という措辞です。「水現れて」ということは、それまで見えない水が初めて見えるようになることを意味しています。そのように見える場所といえば、滝の下の滝つぼからやや離れた場所になるのではないでしょうか。そんな場所には、通常滝見台が設置されているものです。
もう一つは、掲句には不思議と音がないことです。掲句は視覚の句といってもいいでしょう。「水現れて」は、作者と滝との遠さをも示しているのではないでしょうか。

このように、作者は意識的にせよ、無意識的にせよ、対象と自分との位置関係を句の中に描出しています。このことは、読者に作者が現実の空間にいることを印象づけます。
読者は、作者と同じ空間に身を置き、作者の感動をともに味わうことができるのです。

寒茜富士の孤影を望みけり        金子つとむ
拙句は、はじめ「寒茜富士は孤影となりにけり」としましたが、「なりにけり」では、作者と富士の距離感がつかめないため、「望みけり」と推敲しました。
望むには遠望の意味がありますので、作者と富士との関係は、より明確になるものと思われます。このことで、句のなかには、作者から遠い富士の孤影に至る大きな空間が含まれることになります。
その空間で作者は呼吸し、読者も呼吸することになるのです。共感の構造とは、句の持つ空間、作者のいる空間に読者を招き入れることではないでしょうか。

赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり       正岡 子規
赤蜻蛉は、眼前の景。赤蜻蛉をそれと認識できるほどの距離感です。それに対し、筑波山は、おそらく遠景でしょう。それは、「雲もなかりけり」という言い方がそう思わせるのです。
筑波の山容に対して、雲を云々するのは、遠景でしかないからです。間違っても、筑波に登っていたらこのような表現にはならないでしょう。この句からは、筑波を遠方にした、秋野の景色が広がっているのです。
その空間、爽やかな空気感のなかに身を置くことは、読者にとっても大いなる喜びといえましょう。


百三十、写生と季重り

前前回、子規の季重りの句を見て思ったことは、子規は単に写生をしただけではないかということです。写生をしていれば、そのなかに同じ季節の季語が含まれる可能性は高まります。そのとき、季重りだといってそれを回避すれば、現実の景色よりも約束を重視することになります。

季重りは、一句のなかに二つ以上の季語のことばが存在することではなく、二つ以上のことばを季語として働かせてしまう状態をいうのではないでしょうか。
季語は、眼前の景物のなかで作者が最もこころを動かされた景物で、一句の作句動機となったことばです。ですから、季語は主役といえましょう。その主役の情趣のなかに一句を統べることが、句意を明確にさせ、詩情を伝えることになるのです。

子規の季重りの句を、すこし念入りに見ていきましょう。季語のことばが二つあるとき、主役の季語をどのように明確にしているのでしょうか。

蜜柑剥いて皮を投げ込む冬田かな     正岡 子規
作句現場は、冬田です。この句の大半は蜜柑についての記述ですが、それを受け止める「冬田かな」の詠嘆が、季語が冬田であることを示しています。蜜柑の皮が、冬田をより一層寒々と見せているのです。

あたたかな雨がふるなり枯葎       〃
作句現場には、あたたかな雨がふっています。「ふるなり」の力強い断定が、枯葎に覆い被さるようです。あたたかな雨が、枯葎の蘇生を約束しています。

毎年よ彼岸の入りに寒いのは       〃
この句の面白さは、問答形式をとっていることです。作者の問いは隠れていますが、彼岸の入りの寒さに驚いた作者に対し、相手は毎年のことだといっています。「毎年よ」で、寒さは彼岸の入りの属性となっているのです。

花椿こぼれて虻のはなれけり       〃
椿の花を見上げていた作者は、それが落ちる瞬間まで見届けています。ああ、虻がいたのかという軽い驚き。しかし、作者の視線は、虻を追いかけているわけでありません。もし仮に、作者にとって虻が主役だったならば、
花虻の立つや椿のこぼれ落ち
などとなるでしょう。作者の視線は、徹頭徹尾椿の花の方にあるのです。

子規は、やはり写生をしただけだと思います。作者の関心のありどころは、そのまま表現に現れるからです。


百三十一、続・写生と季重り

前回に続いて、季語と季重りの問題を考えてみたいと思います。季重りについて、少し整理してみますと、
一、 形の上での季重り(句として問題なし)
二、 働きの上での季重り(句として問題あり)

の二つがあり、問題となるのは、働きの上での季重りではないかということです。そして、子規の写生句は、形の上での季重りで、問題ないのではないかということでした。

では、ほんとうに写生をするだけで、季重りは気にしなくていいのでしょうか。また、働きの上での季重りはどんなときに起るのでしょうか。
そのことを、やはり子規の例句で考えてみたいと思います。次の句では、子規は何に関心をもち、何にこころを動かされて写生したのでしょうか。

花椿こぼれて虻のはなれけり       正岡 子規
掲句は、子規365日(夏井いつき著、朝日新書)では、次のように説明されています。
「落椿」と分類された一句。一輪の「花椿」が枝からこぼれたとたん、深い花の内から「虻」が離れていった、そういう短い時間の映像が過不足なくことばで表現されている。
子規は、椿の花に関心があったからこそ、その落ちる瞬間を見逃さず、虻が離れたことまで見届けることができたのではないでしょうか。
掲句の表現そのものが、作者の関心が椿の花だと告げているように思えるのです。写生は、自ずと作者の関心を焙りだすといってもいいかも知れません。

もし仮に、始から虻が見えており、子規の関心が虻にあったとしたら、表現はどのように変わるでしょうか。
わたしがその場にいたとしたら、表現のうえで虻をもっと前面に押し出すように思います。
① 花虻の潜むに深き花心かな
② 花虻のうしろ姿や花の蕊
③ 花虻の椿に潜みゐたるかな
④ 花虻の立つや椿の零れ落ち
⑤ 花虻に椿の花の深さかな

①と②では、椿ということばを使いませんでした。③は花虻が優勢ですが、④と⑤では、やや拮抗しているといえるでしょう。

椿の現場(椿の花に偶然虻が来ていたとはいえますが、虻がいる所に、偶然椿があったとはいえないでしょう。)にいながら、虻を読むのはやや不自然な気もします。
虻を前面に押し出そうとすれば、椿は消えてゆくのが、表現として自然なのではないでしょうか。


百三十二、大きな景を詠む

俳句では、たった十七音のなかに大きな空間を取り込むことができます。例えば、宇宙といっただけでは、実感のある具体的な広がりを取り込むことはできません。
しかし、俳句にすることで、宇宙の広がりや、悠久の時間の流れをも取り込むことができます。まず、例句を見てみましょう。

荒海や佐渡に横たふ天の川        松尾 芭蕉
わたしたちは、句の景を鮮やかにイメージすることができます。視線は遠く天の川に及び、時間は佐渡の歴史を遡っていきます。しかし、この句の構図はいたってシンプルです。
荒海や(近景)+佐渡に横たふ天の川(遠景)
切れを間にして、近景と遠景を対比させているだけです。

荒海は、作者にとっての近景です。作者の立ち位置からこの空間は広がっています。この空間の中心に作者がいるといってもいいでしょう。
そこに作者がいるということが、実は大きな意味をもっています。それは、読者は容易に作者の成り代わり、この景を実感することができるからです。いわば、ひとの身体感覚が、この景を実感させてくれるのです。

その空間は、荒海、佐渡、天の川ということばを単独に並べても表現できるわけではないでしょう。俳句という形式によって、初めてこの空間を一句のなかに取り込むことに成功したといえるのではないでしょうか。

 他の句も見てみましょう。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり       正岡 子規
芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏

掲句はいずれも、近景+遠景の構図になっています。作者の立ち位置を中心として、大きな空間が広がっています。
この空間は、わたしたちの読後感に少なからず影響しているように思われます。子規の句は、玲瓏な秋の空気に身をおくような清々しさに満ちています。蛇笏の句は、ピンと張り詰めたような冷気に、こちらも思わず背筋を伸ばしてしまいそうです。

芭蕉のように上手くはいきませんが、わたしたちも少し意識するだけで、大きな空間や時間を句のなかに取り込むことができます。会員の例句から、その広がりを味わってみましょう。
牡丹鱧一つ二つと比叡の灯        小宮山 勇
焼岳に笠雲秋の麒麟草          三代川次郎
空蝉やあの世へ鳴らす鐘の音       宮永 順子
巡礼の鈴鳴らし過ぐ大夕焼        廣瀬キミヨ


百三十三、主観語について

俳句が個人的な感情や感動を表現するものだからといって、喜怒哀楽をそのままのことばで述べても相手には伝わらないでしょう。それは、まるで、スピーカーでがなりたてるようなもので、いいたいことがあるのは分かるけれど、肝心の内容が伝わってこないのです。

普段使いのことばで、平静に表現するのがいちばんだとは思うのですが、俳句をつくるときのテンションは、日常の次元から少し高いところにありますので、言うは易し、行なうは難しです。
そこで、実際の例句にあたって、注意点と成功事例を確認することで、表現する際に気をつけたい点を整理してみたいと思います。

【生の表現】
美しい、悲しい、寂しいなどのことばを使用せずに、それを表現するのが俳句だといえましょう。しかし、例外的に成功している句もあります。
美しき緑走れり夏料理          星野 立子
羅やひと悲します恋をして        鈴木真砂女
夢の世に葱を作りて寂しさよ       永田 耕衣

これらの句が成功しているのは、そうとしかいいようのないぎりぎりのところで、ことばが発せられているからだと思います。

【飾る表現】
雨音の奏で初めたる枯葎        金子つとむ
照り雨に音立ち初むる枯葎       〃

「奏でる」は、音楽を奏することですので、ことば本来の意味から逸脱しています。作者は、感動して雨音を音楽のようだと表現したのですが、作者にとって自然な表現も、読者には飾っているようにしか聞こえません。その結果、現実感が損なわれてしまうのです。

【比較表現】
美しいや悲しいといった程度が、人によって異なるように、大小、高低、深浅といったものさしも、人によって異なるでしょう。大の字を付けたからといって、作者が感じた大きさを読者も同じように感じるわけではないのです。
句として成功するためには、実際の大きさを想像させるだけの表現の工夫が必要なのではないでしょうか。
大盛の秀衡椀の菜飯かな         皆川 盤水
菫ほど小さき人に生まれたし       夏目 漱石
あるときは船より高き卯波かな      鈴木真砂女

秀衡椀を知っている読者なら大盛を想像できます。また、漱石、真砂女の句では、菫や船が比較対象となって、より具体的な表現になっているといえましょう。


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