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俳の森-俳論風エッセイ第23週

百五十五、独善句になっていないか

自分だけにしか分からない句を独善句と呼ぶことにします。もちろん俳句は他人に読んでもらうことを前提に作るわけですから、はじめから独善句を作ろうなどという人はいないはずです。
けれども、結果的に独善句ができてしまうのは、何故なのでしょうか。その理由は簡単にいえば作者の勘違いということになりましょう。ここでは、例句をもとに、独善句について考えてみたいと思います。

電柱を丸呑みにして葛咲けり       金子つとむ
心根のやさしき人や月今宵        〃

前者は、一句一章の句です。詳細は省きますが、極論すれば季語とそれがどのようであったかというだけで俳句を作ることができます。掲句もそのような形になっています。季語の葛の花(葛咲く)が、電柱を丸呑みにして咲いているといっているわけです。
このとき、作者にはまさにそのように見えたのでしょうが、問題はこの丸呑みということばでしょう。
丸呑みは、全体を乗っ取るという意味で使われていますが、葛の花が乗っ取るというのはもちろん擬人化です。
擬人化が全ていけないわけではありませんが、作者としては、まずそれに気付くことが大切でしょう。その上で、その擬人化が読者も認めるものであるかどうかを検討する必要があります。
掲句は葛の生命力に焦点が当りすぎて、肝心の葛の花の美しさが疎かになっているのが、最大の欠点ではないでしょうか。そこで、次のように推敲しました。
電柱に絡みて高き葛の花         〃
オーソドックスですが、高嶺の花の美しさに焦点を当て直したのです。

さて、後者は二句一章の句です。この句形では、それぞれの句文が独立していること、すなわち、句意が完結していることが大切です。
問題は、「心根のやさしき人や」だけでは、作者とその人の関係が読者には伝わらないということではないでしょうか。そこで場面が分かるように推敲しました。
心根にふれて語らふ月今宵        〃
こうすることで、心根のやさしき人は、自分と語り合う相手ということになり、やさしさといわずとも、触れてということで、その意味を伝えることができるでしょう。

独善句は、相手も自分と同じように感じるはずだとか、自分だけが知っている情報を相手も知っているはずと勘違いすることで起ります。ですから、勘違いに気付くことができれば、簡単に修正することができます。独善句になっていないか、お互いに気をつけたいものです。


百五十六、俳句以前ということ

まったく迂闊な話ですが、当地に引越して約九年、この地がかの高野素十の生誕の地であることを先頃初めて知りました。素十の句集「初鴉」を藤代図書館で探しあてたことがきっかけでした。

高野素十は、年譜によれば、明治二十六年三月三日に、茨城県北相馬郡山王村(現取手市)大字神住百六十番地に生れています。素十の句は、それまで、
ばらばらに飛んで向ふへ初鴉       高野 素十
方丈の大庇より春の蝶          〃
くもの糸一すぢよぎる百合の前      〃
づかづかと来て踊子にささやける     〃
また一人遠くの芦を刈りはじむ      〃

など幾つか諳んじておりましたが、弟子である小川背泳子の著書「高野素十とふるさと茨城」(新潟雪書房)を読んで、その人となりを知ることができました。
そのなかで、素十のことばとして伝えられている、『俳句以前』ということについて、お話してみたいと思います。

俳句とは、自分の生涯、生活の断面をみせるものであります。そんなことから私は俳句を作る場合で『俳句以前』というものがあり、その『俳句以前』を大切にしなければならないと思います。(中略)
そうすれば、自然の姿・美しさが諸君の前に出て来ます。あるしみじみとした感じが心の中に加わると思います。(大会筆記・背泳子)

また、ある箇所では、
私の句は「草の芽俳句」だとか「一木一草俳句」だとか馬鹿にされよったんですが、私はそう云われながら自分で充分満足しておる。
世の中の或は自然の中の小さい一木とか一草とかそういうものを愛する、大事にする、という気持ちがなくて国を愛することも社会を愛することも出来ないのじゃないかと思うんです。(中略)
一木一草を馬鹿にしている人間、そういうものは向うが私を馬鹿にしていると同じように私は軽蔑している。「一木一草」というものを私は死ぬまで大切にして機会あれば俳句に詠んでいきたい、そう思っている。(長須賀包容記)

わたしなりの解釈をいえば、作者のものの見方・考え方がいわば『俳句以前』であって、そういうものがしっかり据わってくると、自分の目で心底から自然の姿・美しさを捉えられるということではないかと思います。
一木一草を愛するこころが、素十俳句の根本にあるのだと、感じ入った次第でした。『俳句以前』、大切にしたいことばです。


百五十七、句意と作意-俳句から受け取る二つのもの

わたしたちが他人の句を読むとき、作者から何を受け取っているのでしょうか。ここでは、高野素十の句をもとに考えてみたいと思います。

ひつぱれる糸まつすぐや甲蟲       高野 素十
この句について素十は、次のように自句自解しています。
この句は、見たままです。甲蟲に糸をくっつけて、柱か何かへしばって置くとこの句の通り、いつまでも居ます。
それが甲蟲らしいところかと思ひ作った句です。描写といふだけの句です。(しほさゐ、昭和二十八年二月号)「高野素十とふるさと茨城」(小川背泳子著、新潟雪書房)

わたしたちがまず受け取るのは、文字通りこの句に描かれた情景、つまり句意だといえましょう。しかし、この句の背後にある作者の創作意図、つまり作意といったものは、直接明かされることはありません。それは、作者が何をどう詠んだかということのなかに、全て含まれているといっていいでしょう。

句意が表の姿だとすると、裏には作意がひっそりと寄り添っているのです。句意には疑問の余地はないでしょう。素十が自解している通り、見たままを描写したのです。それでは何故素十はこの景を一句に仕立てたのでしょうか。素十の作意はどのあたりにあるのでしょうか。
先の自解では、素十は「それが甲蟲らしいところかと思い・・・」と述べています。

私見によれば、甲蟲の甲蟲らしさとは、甲蟲が精一杯生きている姿、命の有様のことではないかと思われます。
作者は、その有様に共鳴し、そこに命の輝きを見たのではないでしょうか。
「ひっぱれる」は甲蟲の自由な意思を、「まっすぐな」は、甲蟲のありったけの力を現しています。
そして、甲蟲のいのちは、本来自由で何ものにも束縛されないものでありましょう。
その一途さ、必死さが、わたしたちに、大げさにいえば生きる力を感じさせてくれるのではないかと思います。

同時にわたしたちは、素十という人間がそれを見届け、書き留めてくれたことに、人としての共感と信頼を覚えるのではないでしょうか。
この共感と信頼は、わたしたちの生きる力、精神的な糧となるものです。
作者が感動したことを正直に伝えようとするだけで、その姿勢がわたしたちの共感を呼ぶのです。
俳句は、自分を励まし、共に生きようというメッセージなのではないでしょうか。


百五十八、対象との一体感

「その眼、俳人につき」(青木亮人著、邑書林)によれば、高浜虚子は、「写生俳句雑話」で「写生」を次のようにも説明しているようです。
例えば桜の花を見る場合には、その花に非常に同情を持つ。あたかも自分が桜の花になったごとき心持で作る。すなわち大自然と自分と一様になった時に写生句ができるのです。

虚子のいわんとしていることは、対象との距離感を失くせということではないでしょうか。実際に虚子の桜の句を見てみましょう。
咲き満ちてこぼるる花もなかりけり    高浜 虚子
ここには、満開直後の充実した花の姿が描かれています。ほんの束の間、満開のひとときを楽しむかのような花の姿は、虚子が桜と一体と成り得たことで初めて感得した境地を示しているのではないでしょうか。

ところで、わたしたちが俳句によって伝えようとするのは、単なる事実の報告ではなく、その情景から感じた感動といっていいでしょう。そのために、事実をできるだけ正確に、上手く伝えようとことばを重ねていきます。しかし、正確に描写しても、逆によそよそしさを感じてしまうのは何故でしょうか。
それは、観察者の視点だけですと、冷たい傍観者の視点に見えてしまうからではないかと思われます。

花にこころを通わせず、傍観者の視線で詠めば、
咲き満ちて花片未だ零れざる
とでもなりましょうか。しかし、これでは、原句のもつ豊かさは表現できないでしょう。原句では、「こぼるる花がない」ということで、逆に咲き満ちたまさにそのひと時の充足を詠っているからです。
 
もう一度、原句に戻ってみましょう。原句には、虚子が満開の桜を見上げて、ふと洩らしたような自然なひびきがあります。しかし、桜と一体となるといっても、桜を擬人化して表現しているわけではありません。
心は対象と一体に、表現はあくまでも客観的にといったところでしょうか。

写生とは、事実の報告ではなく、作者独自の捉え方ということもできましょう。その捉え方は、対象と一体となることで生れると虚子はいっているのです。
巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ      高浜 虚子
流れゆく大根の葉の早さかな       〃
夕立や森を出て来る馬車一つ       〃
躑躅あり一枚岩の真中に         〃
鴨の嘴よりたらたらと春の泥       〃


百五十九、対象との距離感と共感の関係

わたしは春の畦道を歩いています。まっすぐな畦道には、どこまで蒲公英が咲いています(①)。まるで、春の日差しいっぱいうけた子どもたちが、ひとみを輝かせているようです(④)。
そのなかの一つにかがんでみると、花の蕊のあたりは、濃い黄色で、外側にいくと少し薄く見えます。それに、外側の一番大きなはなびらは少し反り返っているようにも見えます(②)。花びらがぐっと背伸びしているようです(③)。

さて、こんな状況のなかで、蒲公英を主役にしていくつかの句を作ってみることで、作者と対象との距離感が読者の共感に及ぼす影響を考えてみたいと思います。
① どこまでも蒲公英の黄の畦をゆく
② 反りがちに蒲公英ひらく畦をゆく
③ 日の色に蒲公英ひらく畦をゆく
④ 蒲公英の眸みひらく畦をゆく

いかがでしょうか。文章の①から④の箇所に対応して、作句してみました。①から④になるに従って、作者と蒲公英との心理的な距離は近くなり、④では比喩と擬人化によって、蒲公英に没入しているといえましょう。
この何れの句にも、それぞれ支持者はいるかもしれませんが、例えば句会などに掲句を出したとき、最も多くの支持を得られるのは、②もしくは③のように思われます。

その理由を作者と蒲公英の距離感から考えてみたいと思います。
① 蒲公英の黄の畦という表現は、作者の注目を表していますが、それ以上ではありません。蒲公英が黄という情報だけでは、殊更に注目している感じはでないでしょう。作者と対象との間に距離があると、感動が伝わってきません。

②「反りがち」という表現が目に付きます。それは、作者が立ち止まり、ひとつの花を観察していることを意味します。「反りがち」を発見し、そう言い止めたことのなかに、作者の独自の視点が見えてきます。

③ 「日の色に~ひらく」という措辞に、初め読者は違和感を抱くかもしれません。しかし、作者には、蒲公英は太陽の花のように見えたのです。「日の色に~ひらく」は、主観と客観表現のあわいにあるように思われます。それほどに、作者は対象と一体となっているのです。

④ 最後は、擬人化です。花を眸になぞらえ、「眸みひらく」と詠んでいます。作者の感動が大きければ大きいほど、表現はたやすく擬人化に傾くでしょう。しかし、それがそのまま読者に伝わるかというとやや疑問です。


百六十、いい句とは何か

読者がいい句に求める条件とは何でしょうか。俳句では類句・類想が嫌われるということのなかにそのヒントがあるように思われます。
たった十七音なのに、俳句では作品の独自性が求められているのです。それは、非常に難易度の高い要求のように思われます。何故なら、わたしたちにあるのは、たった十七音のことばの選択と配列だけなのですから・・・。

自分らしさもよく分からないのに、独自性を示すことなど本当にできるのでしょうか。しかし、答えは簡単です。本来ひとそれぞれが独自なのですから、自分が感じたことをできるだけ正直に表現することに努めればいいのです。
それが、「言うは易し、行なうは難し」であることもまた事実でしょう。わたしたちは、もはや無心で絵を描くことも、無心で文字を連ねることもできないからです。知らず知らずのうちに、表現に無用な衣装を着せ始めてしまうからです。

「高野素十とふるさと茨城」(小川背泳子著、新潟雪書房)のなかに、こんなエピソードが綴られています。
私(背泳子:筆者注)も花の句を作り投句しましたが、その中の一句「花の棒隣の花の毬に伸び」が先生の選に入りました。先生は「『花の棒』『花の毬』とはどんなことをいっているのか」と質問があり、私は誰やらの句々に花の咲いていることを『花の毬』といっているのを思い出して作ってみました」と答えると「『花の枝』『花の中』でいいではないか。無理な言葉を使うな」と添削されました。

正直に表現することのなかには、普段使いのことばを使用するということも含まれているようです。作者の心情にことばがぴったりと寄り添うとき、佳句が生れるのではないでしょうか。借り物のことばでは、自分の句にならないということではないかと思います。
作者の眼が、こころが捉えたものを正直に表現する、そのとき作品は自ずから作者を体現するといってもいいでしょう。俳句を長年続けていけば、いつしか作者が句であり、句が作者であるような幸福な関係が出来上がるのではないかと思います。

自分らしさを知るうえで、課題句はとても参考になります。他人の課題句と自句とを比較することで、物の見方の傾向を自覚できるからです。そして、ほんとうに独自性を獲得した句は、後々まで光を放つことになるのです。
ふだん着でふだんの心桃の花       細見 綾子
蕗の薹喰べる空気をよごさずに      〃
チューリップ喜びだけを持つてゐる    〃
仏見て失はぬ間に桃喰めり        〃

百六十一、感動の現場

俳句が感動を表現するものなら、その感動の生まれた場所が、感動の現場です。
よく多作多捨ということがいわれますが、写生句では、感動の現場を叙景することで間接的に感動を表現しますので、作句力をつけるために、多作ということが推奨されているものと思われます。多捨とは何かといえば、わたしは、感動のないものは捨てるというふうに考えています。

たとえば、小さな野の花を見つけたとします。あっ、こんなところに花が咲いている・・・。ここまではただの発見です。感動とは、その花を見つけたことで、自分にもたらされたこころの変化です。芭蕉さんなら、さしずめ、次のような句になるのではないでしょうか。
山路きて何やらゆかしすみれ草      松尾 芭蕉
よく見ればなづな花咲く垣根かな     〃

芭蕉さんの感動は、「なにやらゆかし」や、「よく見れば」の措辞に込められています。

わたしたちは、見つけたものを何でも句にしてしまいます。それは悪いことではありません。しかしその中から、感動のあるものだけを残し、他は捨てるのです。それが捨てることの本当の意味だとわたしは考えています。
発見は感動をもたらしますが、発見だけでは感動ではないことをよくわきまえておきたいものです。

ところで、推敲しているうちに、句が勝手にあらぬ方向へ行ってしまった経験はないでしょうか。そんな時、わたしは感動の現場に立ち帰るようにしています。何故なら、感動の現場には、自分が見落していたものも含めて、初めから感動の引き金となった全てが揃っているからです。

ある時、こんなことがありました。一旦由とした句を更に推敲してしまったのです。
花吹雪一片を子が捕らんとす       金子つとむ
花吹雪一片を子がまた追へり       〃

感動の現場は、一句目通りだったのですが、推敲しているうちに、少し捻りたくなってしまったのです。二句目には、時間的経過が織り込まれ、少し物語性がでていますが、子のストレートな心情は薄れてしまいました。

感動の現場で表現するということは、一句目で完結するということです。短い場面ですから、いくらでも創作することは可能ですが、そこには、見えない作為が胚胎してしまうように思われます。
煮詰まったら、感動の現場に帰ってくることです。感動の現場で詠まれた句こそが、雲の峰の標榜する自分詩であり自分史となるのではないでしょうか。


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