ローカル化する「報道写真」

毎年この時期になると世界報道写真(ワールドプレスフォト、WPP)の受賞者が発表され、どんな写真が選ばれているか一応見たりする。アメリカならピューリッツァー賞とか、日本だったら木村伊兵衛賞とか人によって気にしている写真賞は違うだろうが、筆者は欧州在住で主にエディトリアルの分野で活動しているので、WPPを見るわけだ。

全受賞者の経歴や写真のキャプションまで読み込むわけではないが、何となく審査員の意図を感じることがある。この辺はノーベル賞にも思うこともあるけれど、今年のWPPに話題を戻したい。端的にいうと写真をローカル化、ネイティブ化して、写真というメディアの境界を曖昧化、あるいは広げようよ、といった感じだろうか。

WPPの対象に選ばれるような写真は、もともと紛争地で撮影されることが多い。その年を象徴するような報道写真は、その年を象徴するような戦争から生まれるというわけだ。そしてそうした戦争は第二次大戦の終結後、東欧や中東、東南アジア、アフリカなど、先進国や大国と呼ばれる国ではなく、その周辺で起こってきた。それを主に先進国のメディアやフォトグラファーがカバーして報道した。WPPの大賞を2年連続受賞した沢田教一氏もベトナムの戦地に赴いて撮影した。

しかし今は違う。

今回大賞に選ばれたのは、姪の遺体を抱きしめて泣き崩れるパレスチナ人の女性を捉えた一枚だ。遺体は白いシーツのような布に包まれ、青い服に茶色のヒジャブの女性に抱きしめられている。女性の服装が灰色の背景から浮き立って見える。撮影したのはロイターのパレスチナ人フォトジャーナリスト、モハメド・サレム氏(b.1985年)。構図にしろ光にしろドラマティックなものではないが、審査評にあるようにパレスチナ人の苦難の長さ、そのに止まって継続的に取材を続けているフォトグラファーを評価したということだろう。審査員のチェアは左派・リベラル色の強い英ガーディアン紙の写真のトップ、フィオナ・シールズ氏なので、その影響もあるのかもしれない。

昨年の戦争をもう一つ挙げるとすれば、多くの人にとってウクライナ戦争だろう。世界報道写真といえば文字通りもともと報道写真の賞だが、その境界を緩める、あるいは広げる試みも続けられている。今回オープンフォーマットと呼ばれる写真以外も使ってストーリーを伝える部門に、ウクライナ人のフォトジャーナリスト、ジュリア・コチェトヴァ氏(読み方は違うかも。b.1993)の作品が選ばれた。「War Is Personal」というタイトル通り、大手メディアの報道では必ずしも現れない個々人をインサイダーとして見つめ、写真だけでなく、イラストや音声、テキストも使ってポエティックとも言える作品に仕上げている。私小説ならぬ私写真を提唱した荒木経惟氏にもどこか通ずるものを感じる。

こうした「新しい」手法が評価された作品が若い女性フォトジャーナリストによって編まれたことも興味深い。彼女が男性だったなら徴兵されていたのだろうか、という思いもふと心をよぎる。

報道写真というと芸術とはかけ離れた、また動画の時代に日陰となった分野という先入観がある人もいるかもしれない。しかしその分野の中でトレンドは変わり、境界は曖昧になっていくように思える。マグナムのような先鋭写真家集団が報道とアート間を突いているように感じていた時期もあったが、今はさらにローカル化、ネイティブ化が進み、そこら中で新たな記録やその方法が編み出されているのかもしれない。

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