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舞台スタァライト#4 Climax 感想

舞台はナマモノ今の感想は今しか書けないというスナップショット感想です。本当はもうちょっと整理して書きたいけど、スタァライトでそれは相当時間をかけないと無理なので以下は本当に未整理のやつ。

よくわからんかったかもしれない。開口一番こんなことを言っていますが、まあそもそもスタァライトを「わかった」ことなんてなかったかもしれない。ワカリマス。
まあ禅問答は置いておいて、ぶっちゃけこの二層展開式のコンテンツについて、どこがどう繋がって……というのは本当にまだ全然自分の中で整理できていません。とりあえず今の#4の感触は「アナザー劇ス」かなというところ。劇スとはパラレルかなーと思っています。というか舞台とアニメはパラレルな印象。やっぱり二層展開式とは二次創作に近いのかもなというのが今現在のスタンスです。

演出特盛で観客の感情をめちゃくちゃにしてくるのは劇スと同じ感覚でした。多分スタァライトの遺伝子。あとコメディとシリアスの緩急がすごい。笑ったり泣いたりとにかく感情が動きまくりなので観ると腹が減るし疲れました。心地よい疲労。

ていうかやっぱり九九組の人たち好きだなー。あの人たちが舞台に全員揃っているだけで1億点!みたいな部分は大いにあります。とんでもなく上手い歌も聞けたし、キレッキレのダンスも観られたし、バッチバチの殺陣(そしてやたらと低いスタンス)も観られたしやっぱり1億点なのでは。

舞台の方もやっぱり卒業が描かれて、「別れ」が大きなテーマだったと思います。慣れ親しんだ人とも環境とも別れる。
しかしですね、丁度無料公開されてたし舞台版を通して見ましたけど、特にこの舞台軸の人たち、元から全く全然バラッバラじゃないですか? 同じ学校で同じ制服を着ててもてんでバラバラな方向を見ている。でもそれがいいんですよね。バラバラな人たちが舞台で、レヴューでほんの一瞬心を通わせる。それで十分なんですよね。戦いの中でかけがえのない関係性を築くって、文脈が基本的に少年マンガなんだよな。(余談ですがキャストの方々も経歴年齢等々全然バラバラなんだよな)

この舞台「自分は自分」というのが殊更強調されていたように感じました。それはそう。自分の人生の主演は自分自身で、世界の中心で他者はどうしても他者である。自分の進む道は自分でしか選択できないし、そこで生じた後悔すら自分自身のものである。だから「後悔させてやるからな」って最高のセリフだなーと思っていました。「自分は自分」であるならば、他者がそれぞれの選択に介入できる手段って後悔させることくらいかもしれない。

それぞれがそれぞれの道の先できらめいていればどこへ行っても見つけられる、ってとてもとても美しい別離の解釈だと思うんですよね。綺羅星ディスタンスの歌詞を噛みしめて泣いています。

ちなみに舞台版を通して見た後だとNOTITLE→Transition→Revival→Growth→Climaxの流れに泣く。オタクはこういうのに弱いぞ。
そもそもレヴューの始まりが天堂真矢の絞りだすようなStar divineのアカペラ独唱って時点で死にそうになりました。

というかレヴューClimaxで流れる綺羅星ディスタンスの落ちサビとラスト!愛城華恋もとい小山百代さんの歌唱がめちゃくちゃにカッコよくてですね、こっちも死にそうになった。

入団試験をすっぽかしていきなり渡英する。神楽ひかりを許さない。私が終わりって言うまでは終わらせない。(挙句卒業式は欠席する)最高にわがままな愛城華恋が本当に最高で。そんな愛城華恋が自らの武器と上掛けを置いて去るシーンに情緒をめちゃくちゃにされて。愛城華恋が終わりをやったら終わるよそれは。主人公がフィナーレを宣言して終わりっていったら終わりよ。
悩んで足掻いてわがままで、舞台を回す。やっぱり愛城華恋は最高に主人公でよかったです。

あとは舞台に対するざっくりとした感触ですけど、舞台はどうしたって観客を完全に置き去りにはできないんだなって思いました。少しカッコつけていうと共犯者を置き去りにはできない(「共犯者」って表現めちゃくちゃカッコイイよね)。
劇スを初めて見終わったとき、「置いて行かれた!」という強烈な感覚がありました(今も少しある)。これは決してネガティブな意味合いではなくて、例えるならば嵐がやってきてめちゃくちゃにされたけど、嵐は去って目の前には台風一過の晴天が広がっているみたいな感覚。
ただ舞台でそれはできないというかそれをやるのはちがうんだと思います。我々は時空を共に作り上げる共犯者だから。片方が片方を一方的にぐちゃぐちゃにして終わるのはちがう。でもだからって観客に寄り添ってくれるわけではないけれど、それでもこれが私たちのきらめきだ!っていうのを「見せて」くれたとは思うんですよね。その延長で、愛城華恋が終わりっていったからこの舞台は、レヴューは終わる。やっぱり綺羅星ディスタンスの歌詞……。

劇スとの話をさらにすると(舞台の感想だけどスタァライトの入り口が劇スだったので許して)、やっぱり媒体の特質の違いというのはあって、劇スが「抽象」なら#4はそのあたりをより「具体」に落とし込んでいる印象があります。
演出も感情も、アニメーションでキャラクターがやるならよりピーキーにエッジの効いたものを表現できるけど、それを舞台で生身の人間がやるのはちがっていて。舞台なら舞台の表現にチューンナップされていた気がします。だから舞台の舞台少女たちはより人間らしくて、彼女たちの感情はもう少し身近で、この舞台を謳歌していたのかなって思いました。
劇スが噴火とか嵐とかそういう圧倒的スペクタクルだとすれば、#4はもう少し人間に寄ったというか、舞台は人間が動かすものだから、感情とか歌の部分でふり幅を担保していた気がします。最初に書いたコメディとシリアスの緩急の印象とか。劇スが外的な装置(WSB)をきっかけに動いていたなら舞台はあくまでも内的な感情で動くみたいな。よくわからなくなってきたな……。

なんにせよスタァライトというコンテンツはこちらに強烈なボールを投げてくる印象があります。彼女たちは進んだ、あなたは? この球を受け取った私はどうしましょうかね。まあとりあえず取っ散らかってはいますがこの感想を投げておきます。




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