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書く目的について

ちょっとした面白みを見つける幸せ

noteを使って文章を書いてみようと思ったので始めています。とりわけライティングスキルが高いわけでも、特別なキャリアがあるわけでもない。なのに書き方はちょっと気取って偉そうで、すみません。

日常の中のこととか、興味のある娯楽から切り取っていろんな切り口で発信していこうと思っています。

日常の中とか、というのも、僕は大きな社会問題に課題意識をもって何かをやるようなタマじゃないと自覚してるので。例えば貧困問題とか環境問題とか、実際に体当たりで挑める人は本当にすごい。すごすぎる。僕にそんなエナジーもビジョンもないです。陰ながらお力になります。それは人の言葉に任せて書いていきたい(代筆)と思います。

自分では日常とか娯楽とか、もっと小さい気持ちの揺れとか、ニッチなことの深堀ができて、ときに別の事柄とかけ合わせて、ほんのちょっとだけでもささやかな発見になれば幸いです。

ちょっとしたことから面白みとか好奇心を見出せるのって、すごく幸せなことだと思うから。

(ちょっと偏った一例で言うと、「モヤモヤさまぁ~ず2」。特に大江アナ時代の)


人は感情で動く生き物。

そんな言葉を聞いたことありますか?

まえに営業をやっていたとき、上司にそういわれました。確かにそうだなーと思いました。いくら論理的に説明しても、どうしてサービスがマッチしているか伝えても契約してくれない。相手の心が躍ってないと、もしくは僕やサービスを「感覚」で気に入ってないとダメな人はたくさんいる。

営業を全否定したいわけじゃないです。僕だっていくらそれが魅力的でも「なんとなーく気に入らない」ってだけで関わらないことはあるし。たぶんみなさんもそんなことありませんか?

それは仕方ないし、それでいいし、それが面白いし、それが人間だと思います。

よく人から理屈っぽいといわれるけど、本当には気分屋な性分をいかして、別に理由なんてなくていいかもしれないけど、理由っぽいことを考えてみて、でもやっぱり人間だし、的な新しさや可笑しさを探していければと思います。

ナンセンスのかしこさ

爆笑問題の漫才は社会派、世相を切っていて気持いい。という意見がありますよね。

確かにベテランになった今も板の上に立ち時事ネタを扱い笑いを取り続ける姿勢はかっこいいし、僕も大好きだ。

でもその面白さは、心地よさは決して社会に問題提起しているからではないと思う。お二人の漫才には聴衆への訴えも問題の解答もないから。

情熱大陸の太田さんの回でも「政治を語るなんてカッコ悪い」とさえご自身で言っている。wikipediaにも、

太田は時事ネタを扱うのは「政治を茶化したいという意識ではなく、ニュースを題材にする事が効率が良かっただけ」「そうしたことに触れないでコントを作るのが難しい」「割と安易な道」と述べている。そのため、ネタの一部分だけを切り取って評価されたり批判されたりする事には否定的な考えを示している。また、太田は2017年のインタビューで自身のDVD「2017年度版 漫才 『爆笑問題のツーショット』」の出来栄えを「時事ネタを話題にはしているけれど、ボクらの漫才は1個も社会風刺してないことがわかるよ」とアピールしている。
お笑い評論家ラリー遠田は太田のボケには、「シンプルボケ」「毒舌ボケ」「ナンセンスボケ」という3つの種類が存在すると評しており、とくに「ナンセンスボケ」については爆笑問題の漫才の隠し味になっているとし、「毒舌ボケ」よりも高く評価している。 出典 爆笑問題:Wikipedia

とある。愉快、痛快なのは実は問題提起されないところにあるのではないか。ネタで文化人を気取るのではないから、聞き手も必要以上にテーマにのめり込んで背負うこともない。自分が知っている事柄がただ可笑しく表現されている。ナンセンスだからカラッとスッキリする。

感心するけど意味はない。このナンセンスさってとても気持いいものではないでしょうか?

重たく思えるもの、モヤモヤするものがナンセンスさによって消化されるのは一種、クレヴァーな幸せの感じ方だと思う。

立ち向かえないものにこころ引っ張られることなく今日を生きられるようになるのだから。

悲しみをコンテンツに変える娯楽

ビジネス書を多読している人のひとりから、「小説なんて役にたたないでしょ。」と言われたことがある。

仕事への直接性で優劣はあるだろうけど、小説が生きる上で時間の無駄だなんて僕は断じて思わない。

登場人物の価値観や心理描写は道徳観を超越して突き刺さる、もしくは対峙する。道徳観を超越する面白さは理不尽を受け止める器である。

人は感情で動く生き物。

問題解決志向によって事態は軽減されるかもしれないが、人の感じる理不尽さや悲しみはどこまで言っても消えることはないのでしょうか。

たぶん、全人類がありとあらゆる自己啓発の名著を熟読しても、同一の宗教を信仰しても消えないと思う。

だから小説のもつ、悲しさや虚しさをコンテンツに変えうる力はなくてはならない。気取った言い方をすればカタルシスだろうか。

音楽だったり、アニメ、絵、写真、マンガ、笑いなどの娯楽にはそれが宿っているはずだ。

(個人的な嗜好でいえば小説、もしくは音楽、笑い。)

享楽的、刹那的というとネガティブなイメージに聞こえる。でも本当はそんな瞬間的な爆発/静止や虚構そのものに、理不尽を乗り越えたり、包み込んだりする力があると思う。

最後に

僕はアーティストでも社長でも大企業のエリートでもないです。先陣をきって顕著な社会問題に切り込む気概もない。応援する気持ちはあります。

かの甲本ヒロトさんもこう詩っています。

なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう そんな気持ちわかるでしょう 答えはずっと奥の方 心のずっと奥の方 涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方 (THE BLUE HEARTS / 情熱の薔薇)

小さないち存在として、変な生真面目さと怠け癖に悩んできた。なのでその理屈っぽさをもってして日常生活の気持ちの揺れや、娯楽の一コマといった、捉えきれない砂漠のような気持ちからも、一見取るに足らない砂の一粒からも、最大限の幸福とかちょっとした面白さを受けとめられる見方をしていきたい。

こんな拙文にここまでつきあってくれた方、本当にありがとうございます。小さいことをなんだか大層に言っていますが、まずは続けてみることからトライしてみます。もし見守ってくださる方がいらっしゃれば幸甚です。

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